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「OFF」する勇気が翻訳の質を高める - 黒岩 克彦

2013/11/25

「OFF」する勇気が翻訳の質を高める

黒岩 克彦 :バベル翻訳大学院、文芸翻訳専攻

 
 「OFFする」が「離れる」という意味だとしても、離れたままで本来の翻訳作業に戻ってこない「OFF」では困ります。「OFFする」が「癒し」につながるためには、「次のONの準備」でなければなりません。どんなに好きなことでも、同じことを繰り返すといつか気持ちが萎えることがあります。そんな時しばしその場から距離を置いてみると思いがけない発見があり、当たり前のことが新鮮に見えてきます。帰省や旅行でほんの数日を離れただけで見慣れた街の景色が目新しく映り、何となく生まれ変わったような新鮮な気持ちになり元気になることがよくあります。勢いで書いた訳文をしばらく寝かせてから見直してみると意外な発見があったり、どうしても浮かばなかった訳文が自然に湧いてくるといった経験をされた方も多いかと思います。まして離れる時間が長くなると、退屈だった日常が全く別の世界であるかのように感じられることも時々あります。うまくいかない人間関係を修復する時の古典的なアドバイスに「しばらく距離をおいて…」がありますが、こうした人間の心理を巧みに利用した先人の知恵でしょうか。一旦「OFF」してみると同じものが違って見え、その新鮮さが「癒し」につながるのかもしれません。今回の「OFFする」を、「本来の作業(翻訳作業)から距離を置き、癒し効果で結果的にモチベーションを高める作用」と考えてみます。もちろん「OFF」の在り様は人それぞれですから、「癒し」効果が出るまで数時間のこともあれば何年もかかることもあるかもしれません。時間制限がある中で翻訳作業に「OFF」をうまく取り入れて「癒し」効果を引出し、次のモチベーションにつなげる術を身に着けることは、翻訳者には大切なスキルです。そうは言っても、「生活がかかっているのに、『OFF』するなんてそんな呑気ことは言っていられない」とか「自分の都合で『OFF』するために距離をおいたら職を失うことになる」といった厳しい声が聞こえてきます。だからこそ「OFFする」ことが大切なのではないでしょうか。要は「OFF」のタイミングを自己管理することが肝心かと思います。あたり前ですが、「OFF」なくして「ON」なしです。

 翻訳作業はきわめて孤独な営みです。課題提出に追われて忙しい時など、一日中誰ともしゃべらずに過ごすこともあります。いくら好きなこととは言え、会話のない時間が続くとストレスになります。そこで少し翻訳作業から距離を置く(翻訳作業を中断する)ために、音楽を聴いたり、好きな本を読んだり、映画を見たり、趣味を楽しんだりします。これだけでも次につながる「癒しのOFF」として、モチベーションは確実に上がります。そうなると、これを更に徹底して物理的に翻訳作業から離れる(作業しない)だけでなく心もしっかり「OFF」する、つまり離れることができれば、「癒し」の質が高まりモチベーションも上がり翻訳の質も向上するのではとの期待が膨らみます。ではどうしたら心も「離れる」ことができるのか。それには「翻訳」と全く無関係な場に身を置くことです。もちろん、そちらに行ったきりにならないことが前提です。しかも、離れることに伴う不安や懸念もありますから、これを実行するには相当のエネルギーが必要です。しかし、結果として返ってくるモチベーションの質の向上を信じて決断する勇気を持ちたいと思っています。その道を究めた人が趣味の分野でも一流であることがよくありますが、恐らく、身も心もしっかりと「離れる」ことができるので、それが真の「癒し」となって本来の作業の高いモチベーションとなって返ってくるからでしょう。スポーツ選手が「OFFの過ごし方が重要だ」とよく言いますが、何か通じるものがあるように思います。「○○一筋」と言われる優れた人ほど、その道から遠いところにしっかりと自分の身を置く場を持ち、距離をコントロールする力を持っているはずです。ひょっとすると、それが一流の証かもしれません。気障な言い方ですが、「翻訳の質を上げようとするなら、その技術や知識の向上はもちろんだが、翻訳以外にも確固たる自分の世界をもつことだ」となります。一流と言われる人の能力に関心があるのは当然ですが、そのモチベーションの源の一つであるはずの別世界は一体何なのか、むしろそちらに興味をそそられます。

 翻訳の世界から一歩外に踏み出てみると、今まで見えなかったものが見えるかもしれません。そこで見たこと聞いたことそして味わったことが、時間はかかっても、必ず翻訳の世界に返ってくると信じています。その入り口が「OFFする」ことではないでしょうか。

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