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3つのポイント -解釈・大局観・距離感- - 佐々木 理恵子

2013/06/10

3つのポイント -解釈・大局観・距離感-


佐々木理恵子 : バベル翻訳大学院修了。MST(翻訳修士)。出版・ビジネス翻訳者。米国大学研究機関リサーチコーディネーター。


(1) 解釈


先日、「翻訳者の意識」について記事を執筆させて頂いたわけですが、そのことに関連しまして、
これまでの翻訳実務を通して感じたことを3点ほどお話しさせて頂ければと思います。

 
『照千一隅 此則国宝』 これは、天台宗開祖、最澄の言葉ですが、一般的には「一隅を照らす、これ則ち国の宝なり」と読まれ、私たちもよく耳にし、よく使う言葉でもあります。この言葉は、単に有名というだけでなく、解釈のずれでも論議を醸し出した言葉です。その解釈のずれとは、「照千一隅の「千」の字が「干(カン)」と読まれてしまったため、長きに渡り「一隅を照らす」と解釈されてきた。しかし実際には「干(カン)」ではなく「千(セン)」なので、本来は「千里を照らす」の意味と言える」というものです。このことには少し興味があり、仏教関係のサイトなどを覗いてみたのですが、インターネット上には微妙に異なる様々な解釈がありました。代表的な例を挙げてみます。
 
<解釈A>
どこにいても能力のある人はその能力で千里を照らす。そのような人間こそ国の宝。
 
<解釈B>
社会の片隅(自分の持ち場)で精一杯の努力をすればよい。それが一番社会に貢献したことになる。
 
<解釈C>
すべての人が各々の分野で全力を尽くし生きることが、国全体を照らすことになる。
 
同じことを語っているようで、すべて意味もニュアンスも異なります。こういう状況は、私たちが翻訳をしているときにも、やはり同じような場面に出くわすことがあります。私たちが何らかの言葉や文章を解釈するときには、良い意味でも悪い意味でも自分自身の知識、経験、感情から物事を判断しがちです。そこには「自分はこう解釈したい」という無意識の期待も作用しているのかもしれません。
 
ここでは『照千一隅 此則国宝』が本当はいったい何を意味するのかという議論はさておき、私たち翻訳者が原文を前にし仮に何か疑問を感じたとき、原文中の言葉をどう解釈し、どう翻訳していくかを選択するためには、具体的に何を意識すればよいのだろう、ということに話の焦点を移したいと思います。
 
宗教的解釈も最たるものですが、言葉の解釈というのは、それぞれの国や時代とともに変化を遂げることが多くあり、それはむしろ自然な流れでもあるように思います。何かを語れば、語った本人でさえ日々何らかの成長や変化を遂げているのが人間の性というものではないでしょうか。
 
ここで翻訳者として念頭に置くべきは、解釈は常にひとつとは限らない。むしろ複数あって自然。しかし、翻訳作業を行う上でどういうアプローチをとればよいのか、どういう方針で訳していけばよいのか、そのあたりは、翻訳者が、単純に、断定的に、自己価値観のみで、自己判断することではなく、翻訳者自身ができるだけニュートラルなものの見方で、また専門的判断基準から捉えた上で、原著者との検討により決めていくべきことではないかと感じます。
 
具体的な検討事項としては、たとえば次のことが考えられそうです。
 

 

  • 原著者の真意はどこにあるのか (文字面では複数解釈できることがある)
  • 原著者は執筆当時に書かれたことを今も何一つ変わらず同じ意図でターゲット読者へ伝えたいと思ってるのか
  • 時代が何を欲しているのか
  • 執筆当時の文化や現代の文化に照らし、どう解釈するのが最も現代読者に受け入れられやすいのか
  • 解釈の方向性を変えることは、読者層の方向性にどう作用するのか

 
このあたりは、原著者本人との確認が無理であれば、翻訳会社、出版社、クライアントとの検討ということになるでしょう。
 
また、極端な場合、このような例もあるかと思います。
 
最澄は、本当は「干(一隅を照らす)」と考えてたのに、うっかり「千(千里を照らす)」と書いてしまった。いわゆる、原文に誤字がある場合です。明らかに誤字と判断できるものだけでなく、普通に読めば誤字とはまったく気づかない場合もあります。精度と感度を高く保つことも翻訳者が目指すところなのでありましょう。

 
(2) 大局観
 
ひとりのある翻訳者の方のお話です。この方はご自身の専門分野において日英翻訳、英日翻訳の両域で活躍されていらっしゃるのですが、ある時、原著者の方からこう言われたそうです。
 
「すべてをあなたにお任せします。私の言わんとする意図を汲み取って、ご自由にあなたご自身の言葉と感性で訳してください。」
 
もし皆さんが、原著者、翻訳会社、クライアントの方々からそのような言葉をかけて頂けたとしたら、どのように思われますか?
 
「よかった。これで検討時間が節約できる。自己流で訳せる。ほっとひと安心」
 
果たしてそんな風に感じるでしょうか。私はこのお話を伺ったとき、この原著者の方と翻訳者の間の信頼関係は尋常じゃない。よほどの信頼関係がないと…。翻訳者側によほどの能力がないと…。また、原著者がよほど寛容で、というより、ある意味で大局観の覚悟ができていないと、こんな言葉は簡単には口から出てこないと思いました。
 
そして、翻訳者にとっても、実は、これほどうれしく、また多大なプレッシャーと責任を感じる、しかし爆発的に意欲がみなぎる言葉はないのではないでしょうか。これは「楽できる」とは全く異なる次元の感情です。
 
このことは、決して翻訳の世界のみに言えることではないのだと思います。上司と部下、自社と取引先、親と子、ありとあらゆる関係に共通する感情なのでしょう。すべての物事は細かく見ていくこともとても大切ですが、同時に、大局観で腹を据えて見つめる、このようなことも非常に重要なのではないかと思います。しかし、その境地に達するまでには双方に深く厚い信頼関係が構築されていなければなりません。改めてそのことを考えさせられます。
 

(3) 距離観
 
翻訳には、ある意味で、翻訳者と原文(原著者)間、および翻訳者と訳文(翻訳者)間において、ひとつの『距離感』が必要であるように思います。
 
最初は、翻訳者として原文に近づきすぎず、あえて読者としての一定距離を保ちながら、何の先入観も持たず純粋に原文に接し楽しみ味わいます。その後、だんだんと翻訳者意識を高めつつ、原文(原著者)にどんどん近づいていきます。実質の翻訳時には、その距離感はゼロに等しく、翻訳者は原著者と一致共鳴します。しかし、最終段階に近づくにつれ、再び翻訳者は原著者との距離を離していきます。つまり翻訳者は、あえて訳文(翻訳者としての自分自身)から離れ、読者という第三者的意識を持って自分で書いた訳文との心理的距離を作っていきます。
 
そうしますと、翻訳者としてあるべきひとつの姿も見えてまいります。高い品質の翻訳を生み出すには、翻訳者は原著者にとって最大の良き理解者でありながらも、決してその情熱だけに身を任せてはならない。原文に対しても訳文(自分自身)に対してもどこか冷静さを保ちつつ、また原著者から信頼して頂けるだけの人間性向上も常に目指すことを基本的心構えとして持っていなければならない。このようなことも言えるのではないでしょうか。
 
そして、ある時、ふと気づくのだと思います。自分の翻訳者としての成長は、原著者やクライアントの皆さんあってのことだったということに。翻訳作業という仕事を通して、いかに現著者やクライアントの皆さんから育てられてきたかということに。そして、それが自分にとってどれほど貴重な人生経験であったかということに。翻訳とは、それほどまでにとても奥深い仕事なのだと思います。
 
最後にひとつだけ加えさせていただきます。翻訳者にとって非常に大切な意味を持つ言葉「げんちょしゃ」ですが、この記事では、一箇所だけ「原著者」でなく「現著者(現在の著者) 」と記しております。これは、著者が原文を執筆された当時のお心や時代背景に思いをはせながら、その著者が現代に生きる私たちにメッセージを下さるとすればそれは何なのか?という意識を持つことの重要性を込めて「現著者(現在の著者) 」と記させて頂きました。ここに書き連ねましたすべての思いは、自分自身に言い聞かせながらの自省と自戒でもあります。また、読者の皆様のなかで、たったお一人でもどなたかのお役に立てることができればという願いでもあります。その方が今日も果てなき翻訳の道を、また一歩、力強く前進されますように。最後までお読み頂きありがとうございました。

 



<プロフィール>
佐々木 理恵子(ささき りえこ)
バベル翻訳大学院修了。MST(翻訳修士)。米国カリフォルニア在住。出版およびビジネス翻訳者。米国大学研究機関リサーチコーディネーター。

 

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