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翻訳技術の言語的な基盤 第1回 - 成田 一

2013/04/10

翻訳技術の言語的な基盤  第1回
-どこまで翻訳できるか?-



成田 一 : 大阪大学名誉教授。
 

 今回から、「翻訳」をめぐる多様な問題を、言語学的な面から工学技術的な面にまで及ぶ、広範かつ多角的な視点から考察する長期連載を担当することとなった。翻訳は究極的には言語問題がその核心に存在する。このため、この連載においては、「言語と方言と外国語」、「言語差と教育方略と習熟度」、「英語教育における翻訳と訳読」、「機械翻訳の射程と精度」、「言語の対照研究と自然な翻訳」、「機械翻訳の歴史と未来」(仮題)など、多彩なテーマについて考察して行きたい。
 
 翻訳は言葉の障壁を乗り越える方略であるが、どのような言語処理なのかと言えば、「意味情報の言語間変換」と捉えることができる。基本的には源言語から目標言語に「意味」を移す作業だが、その意味も「論理的な意味」以外に「文化的なニュアンスを含む意味」があり、さらに場合によっては、(漢字、仮名などの)視覚的表現形式や(俳句などの七五調の)音調形式、(擬音擬態語による)音韻象徴など「媒体形式に随伴するイメージ」まで移せるのか、ということも問題になる。通常、翻訳にしても通訳にしても、論理的な意味や文化的なニュアンスを含む意味は伝えられるが、よほど近似した言語でない限り、形式や音韻のイメージ(「音象徴」)まで移すことは困難である。
 
 人間の翻訳・通訳者は、翻訳対象となる言語ならびに文化や社会、慣習、宗教にどれだけ精通しているかが個人によってかなり違うことから、翻訳精度というか翻訳の質も個人によって大きく異なる。文化や社会の違いによって、原文の表現のままでは、誤解が生じる恐れがある場合には、単に直訳を避けて意訳するというだけでなく、読み手の正しい理解に資するような付加的な情報を入れた翻訳に腐心することも少なくない。どれだけ自然な訳文になるかは訳者の個人的な感性が働くが、文芸作品などの翻訳には芸術的な才能も求められる。たとえば、女の発言なら“I don’t like it.”は「うち、嫌やわあ」など、日本語では女言葉に訳さないといけない。
 
 これに対し、機械翻訳においては、(知識データ処理システムは組み込まれていないので、)文化や社会、慣習、宗教などは関係しない。翻訳対象となる言語の文法と構造ならびに語彙の情報をどれだけシステムに組み込み、直訳により言語間の意味情報の転換がどれだけうまくいくか、ということだけが翻訳精度の評価対象になる。
 
 そして、機械翻訳のように言語処理だけが翻訳精度を決めるとなると、言語間の距離ないし近似度によって、どれだけ意味情報が移せるかがほぼ決まってくる。人間の翻訳者は、①論理的な意味のほか、②文化、ニュアンス的な意味、さらに③音韻イメージまで含めた意味の翻訳にも意を注ぐが、機械翻訳が扱うのは論理的な意味だけである。ただし、訳文を読む人間が直訳からニュアンスを汲み取ることはある。
 
 特に、欧米人の翻訳論においては、(日英語間にみられるような)言語差や基本語順の違いなどの要因については触れられることが少ない。だが、論点の誤解があってはいけないので、対象となる言語間の言語的な条件について共通の理解が必要だ。
 
 現代の欧州の言語は印欧語族の中の欧州の三大グループ(ゲルマン語派、ロマンス語派、スラブ語派)と先住ケルト民族の言語などに分類できるが、同じグループの言語は方言の違いを超えるものでないことが多い。そうした言語間では敢えて翻訳や通訳の必要がない。
仮に、翻訳したら、形式や音韻のイメージ(「音象徴」)まで表現することが可能である。
 
 英語は300年間に及ぶノルマン王朝支配の結果、①文法の大枠や基礎語彙といった骨格は本来のゲルマン語的特徴をどうにか維持するものの、②複雑な活用を失い、大量のフランス語を借入したことで、ロマンス語的な特徴を強く帯びるようになり、「混合言語」に変質している。
 
 このため、英仏語間では、語順、文法だけでなく、語彙さらに形式・音韻イメージも含め、あらゆる面で(異言語間翻訳としては)「情報ロスが最小限の翻訳」が得られる。さらに宗教的伝統と文化や社会制度の多くを共有していることから、翻訳に関わる情報が、論理的な意味だけでなく文化的なニュアンスを含め、かなり忠実に訳文に反映できるのだ。人間による翻訳だけでなく、機械翻訳においても、これは成り立つ。
 
 日本語のように、英語とは構造、配列のあらゆるレベルで正反対で語彙、形態、音韻面でも共通性がない言語では、補足的な表現を付加することも含め、論理的にほぼ同等の意味をどうにか伝えられるという程度が精一杯で、文化的ニュアンスや形態、音韻形式に伴うイメージなどはほぼ全て犠牲にせざるを得ない。
 
 それどころか、翻訳文においては、原文の語彙や文体には見られなかった「訳文言語側に起因する言語文化的ニュアンスやイメージ」を生み出してしまうことが避けられないのだ。優秀な翻訳者はそういったことにも配慮した翻訳を心がけるが、機械翻訳にはこれを期待することはできない。
 
 そこまで高度な対応でなくても、翻訳者の言語的な知識が不十分な場合には、思わぬ誤訳をすることもある。たとえば、「(ひどく疲れを覚えたので、)太郎は体をソファに横たえた」を英訳して、“John laid his/the body on the sofa.”とすると、‘body’は通常「死体」を意味し、‘his’ も‘John’ を指せない。“John lay on the sofa.”と訳さなければならない。
 
 これは語彙知識の問題だが、ある心理学の訳書では、“Men are more difficult to love than women.”を「男は(人を)愛することが女より苦手だ」と訳していたが、この文は“It is more difficult to love men than women.”「女より男を愛することが難しい」の意味
【脚注】で、「不定詞句中の目的語が主文の主語になる」英語の規則を知らないことによる誤訳なのだ。こうした語彙知識や文法知識は機械翻訳に組み込めるので誤訳が避けられる。
次回は「機械翻訳における言語処理」を扱いたい。

 
【脚注】 文脈に、人を愛するには、その人のことが理解できなければならないが、アメリカ人の男はポーカーフェースで、自分を見せない、という記述がある。
 

 
 (プロフィール)
 
成田一(なりた  はじめ): 大阪大学名誉教授。英日対照構造論・機械翻訳・言語教育専攻。著書に『パソコン翻訳の世界』(講談社)、『日本人に相応しい英語教育』(松柏社)、共著に『日本語の名詞修飾表現』(くろしお出版)、『名詞』(研究社)ほか、『私のおすすめパソコンソフト』(岩波書店)、編著に『こうすれば使える機械翻訳』(バベルプレス)、『英語リフレッシュ講座』(大阪大学出版会)。英語教育総合学会会長。

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