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司馬遷と『史記』:刺客列伝 ― 川村清夫

2021/03/22

第208回 司馬遷と『史記』:刺客列伝



川村清夫
バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー


          

 中国の神話である五帝から前漢までの古代史を集大成した『史記』で一番面白いのは、歴史上の有名人の伝記を記述した列伝である。列伝は70巻から成り、老子、孫子、孔子、孟子などの哲学者から、蘇秦、張儀といった戦略家、数多くの食客を召し抱えた斉の孟嘗君、趙の平原君、楚の春申君、政治家の商鞅、呂不韋、李斯、軍人の楽毅、蒙恬、韓信、詩人の屈原の伝記だけでなく、暗殺者の刺客列伝、有能な役人の循吏列伝、厳格な役人の酷吏列伝、侠客の遊侠列伝、佞臣の佞幸列伝、成功した商人の貨殖列伝などを、儒教の価値観にとらわれずに記述して、最後に自伝の太史公自序で締めくくっている。

 刺客列伝は、春秋戦国時代の暗殺者たちの伝記を記したものだが、彼らの中で最も有名な者は、戦国末期の紀元前227年に秦王政(後の始皇帝)を暗殺しようとして失敗した荊軻である。荊軻は衛の出身で、侠客をしていたところ、秦王政の中国全土統一を阻止しようとする、燕の太子丹に刺客として抜擢された。太子丹は、春秋時代に魯の刺客の曹抹が斉の桓公を匕首でおどして斉が魯から奪った領土を返還させた先例から、秦王政をおどして秦が諸国から奪った領土を返還させるか、それができなければ秦王政を暗殺しようと考えていたのである。秦王政に拝謁するために、荊軻は燕で最も豊かな地域である督亢(とくこう、北京の南郊)の地図と、秦から燕に亡命してきた将軍の樊於期の首を持って、秦舞陽という若い侠客を連れて、秦王政の王宮である咸陽宮に入った。荊軻は秦王政に巻物になっている督亢の地図を見せ、地図に巻き込んであった匕首で襲うが失敗したのである。

 荊軻の秦王政暗殺未遂は中国史で有名な事件になった。1962年に大映東京が製作した日本・台湾合作の70ミリ映画「秦・始皇帝」で市川雷蔵が荊軻、勝新太郎が秦王政、1998年の中国映画「始皇帝暗殺」(荊軻刺秦王)で張豊毅が荊軻、李雪健が秦王政を演じている。

 それでは荊軻が始皇帝を暗殺しようとして失敗する場面を、原文、小竹文夫、武夫兄弟の和訳の順に見てみよう。

(原文)秦王謂軻曰:「取舞陽所持地図。」軻既取図奏之、秦王発図、図窮而匕首見。因左手把秦王之袖、而右手持匕首堪之。未至身、秦王驚、自引而起、袖絶。抜剣、剣長、操其室、時惶急、剣竪、故不可立抜。

(小竹兄弟和訳)秦王は、「舞陽の持っている地図を取り出して見せよ」と言ったので軻が取り出して王に捧呈した。王が地図をひらいて、図が終わるところ、巻き込んであった匕首があらわれた。すると軻は、すぐ左手で王の袖をとらえ、右手に匕首を持って王を刺した。あわや身に届くかと見えたが、驚いた王が危うく身を引き、起ち上がったはずみに袖がちぎれた。王は自分の剣を抜こうとしたが、剣が長かったので鞘を握った。急場のこととてあわて、剣が竪になって即座に抜けなかった。

 匕首(あいくち)は日本ではつばがない短刀で、侠客の武器として愛用された。中国の匕首(ひしゅ)は槍のような刃でつばがある短刀で、暗殺に使われた。「未至身」は「身に届かなかった」と訳すべきである。「室」は剣の鞘のことである。

 秦の法律では、臣下は宮中への武器の持ち込みが禁止されていたので、彼らは荊軻を止めることができなかった。それでも秦王政の侍医である夏無且が荊軻に薬袋を投げつけて彼が一瞬ひるんだすきに、秦王政は荊軻を返り討ちにすることができたのである。

(原文)左右乃曰:「王負剣!」負剣、遂抜以撃荊軻、断其左股。荊軻廃、乃引其匕首以擿秦王、不中、中桐柱。秦王復撃軻、軻被八創。軻自知事不就、倚柱而笑、箕踞以罵曰:「事所以不成者、以欲生劫之、必得約契以報太子也。」於是左右既前殺荊軻、秦王不怡者良久。

(小竹兄弟和訳)左右の者が「王よ、剣を背負われませ」と言ったので、王は剣を背負い、ついに抜いて荊軻を打ち、その左股を斬った。荊軻は尻をついて倒れるや、匕首を秦王になげつけたが、王にあたらず銅柱にあたった。秦王はまた軻に斬りつけ、軻は八ヵ所に傷をこうむった。いまや事成らずと観念した軻は、柱によりかかって笑い、両足を前に投げ出して、ののしって言った。「事が成就しなかったのは、王を生かしながら脅やかし、かならず契約を燕の太子に報告したかったからである。」かくて左右の者は進み出て軻を殺したが、秦王はしばらく不快の面持ちであった。

 「荊軻廃」の「廃」は「倒れる」の意味で、「箕踞」は「足を投げ出す」意味である。荊軻は最初から秦王政を刺そうとしたので、失地回復の目的を見失ってしまったのである。

 燕は秦に太子丹の首を送って謝罪したが、紀元前222年に滅ぼされたのである。


川村 清夫(かわむら・すがお)

上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。  

 

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