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司馬遷と『史記』:孟嘗君列伝 ― 川村清夫

2021/03/08

第207回 司馬遷と『史記』:孟嘗君列伝



川村清夫
バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー


          

  紀元前1世紀初めに前漢の歴史家司馬遷が編纂した『史記』は、18世紀の『明史』までの中国歴代王朝二十四史の最初を飾る紀伝体の歴史書である。紀伝体は、支配者に起きたできごとを年代順に記述した本紀、貴族の伝記を記述した世家、有名人物の伝記を記述した列伝を中心に編纂された歴史書である。紀伝体以前は、紀元前5世紀前期に孔子が編纂した『春秋』のような、全てのできごとを年代順に記述する編年体の歴史書が主流であった。紀伝体の歴史書は中国、韓国(朝鮮)、ベトナムの正史になった。しかし日本では、朝廷の正史である『日本書紀』をはじめとする六国史は、編年体で編纂されている。

 編纂者の司馬遷は、古代ギリシャのヘロドトスと並ぶ古代世界を代表する大歴史家である。司馬遷は前漢宮廷の歴史書の編纂や、暦の制定をつかさどる太史令の家庭に生まれた。彼は儒学者の孔安国、董仲舒たちに学び、青年期に中国全土を旅行して、各地の史跡を探訪している。彼は父の司馬談から、中国では『春秋』以後歴史書の編纂が低調なので、『春秋』を継ぐ歴史書を書くよう命じられた。太史令の職を継いだ司馬遷は、紀元前
104年に太初暦(太陰太陽暦)を制定すると同時に、『史記』の編纂をはじめた。しかし紀元前99年に前漢の将軍李陵が匈奴との戦いに敗れて降伏した時に、宮廷の大多数の臣下が李陵を非難したのに対し、司馬遷は李陵を弁護したことが武帝の怒りを買って、翌年宮刑を受けて宦官にされてしまった。紀元前96年に釈放された司馬遷は、男性でなくなった屈辱を越えて『史記』の完成に全力を尽くし、紀元前90年にとうとう『史記』を完成したのである。

 『史記』は、簡潔で力強い文体で、東アジアの読者たちを魅了してきた。特に本紀、世家、列伝の各巻の末尾にある、司馬遷の自称「太史公」にはじまる評論は、彼の歴史上の人物たちに対する批判精神に満ち溢れている。

 『史記』は、奈良時代までに日本に伝来していた。他の漢籍と同じく、江戸時代まで漢文訓読によって読まれてきたが、昭和時代後期になってから現代語訳されるようになった。完訳は小竹文夫・武夫兄弟訳(1957年)、野口定男訳(1969年)などが知られている。

 ここで取り上げるのは、戦国時代の大国の斉(山東省)の宰相だった孟嘗君(田文)と食客の馮驩のエピソードである。孟嘗君は、三千人という食客を養うために、領地である薛の住民に金を貸しており、その借金の取り立てに馮驩を差し向けた。しかし馮驩は住民と宴会を開き、返済不可能な貧民への借金の証文を焼き捨てた。孟嘗君は馮驩の処置に不満だったが、馮驩から借金の証文を焼いたことで住民の孟嘗君に対する忠誠心を得たのだと答えて、孟嘗君を納得させた話である。原文、小竹兄弟の現代語訳の順に見てみよう。

(原文)「文食客三千人、故貸銭於薛。文奉邑少、而民尚多不以時与其息、客食恐不足、故請先生収責之。聞先生得銭、即以多具牛酒而焼券書、何?」

(小竹兄弟和訳)「わたしの食客は三千人、だから銭を薛に貸付けたのである。わたしは封邑が狭く、租税の収入が少ないのに、邑民の多くは期限が来ても利息を払わない。それでは賓客奉養の資にも事欠くのを恐れたからこそ、先生に取り立てを請うたのである。聞けば先生は銭を手に入れると、すぐその銭で多くの牛・酒を用意し、証文を焼きすてたとか。いったい、どうしたことか。」

(原文)「然。不多具牛酒即不能畢会、無以知其有余不足。有余者、為要期。不足者、雖守而責之十年、息愈多、急、即以逃亡自捐之。若急、終無以償、上則為君好利不愛士民、下則有離上抵負之名、非所以厲士民彰君声也。焚無用虚債之券、捐不可得之虚計、令薛民親君而彰君之善声也、君有何疑焉!」

(小竹兄弟和訳)「さよう、牛・酒を多く用意しなくては、債務者みんなを会合させられず、利息を払う余裕のある者とない者を、区別して知ることができません。余裕のある者には、取立ての期限を定める必要があろうし、余裕のない者には、証文を保存して十年催促しても、ただ利息がかさむだけです。きびしく督促すれば逃亡して自分の手で証文をすて、結局は弁償しないでしょう。それでは、上は君が利を好んで士民を愛さないとされ、下は士民が君から離れ、負債をこばむという汚名を残すでしょう。これは、士民を励まし君の名をあらわすゆえんではありません。わたしは無用な空証文を焼き、取り立てられぬ空勘定をすてて、薛の民を君に親しませ、君の名声をあらわそうとしたのであります。君は、この処置がいけないとおっしゃるのですか。」

 表意文字を使った漢文は簡潔である。ただし「君」は「殿」にした方がわかりやすい。

 斉は秦、楚に次ぐ大国だったが、孟嘗君死後
58年の紀元前221年に秦に滅ぼされた。


川村 清夫(かわむら・すがお)

上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。  

 

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