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ローマ帝国衰亡史と西ローマ帝国の滅亡 ― 川村清夫

2020/12/22

第202回 ローマ帝国衰亡史と西ローマ帝国の滅亡



川村清夫
バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー


          


 滅亡当時の西ローマ帝国は、領土がイタリア半島、クロアチア、フランス北部だけの飛び地国家になっていた。ただしフランス北部のローマ人支配層はもはやイタリア半島の命令に従わず、クロアチアは475年に15歳で即位したイタリア半島の最後の皇帝アウグストゥルスと対立する皇帝ネポスが占拠していた。

 イタリア半島は、
472年に死去したゲルマン人将軍リキメルに代わって、ゲルマン人将軍オドアケルが実権を握った。オドアケルはリキメルと違って、傀儡(かいらい)の皇帝を頂いて実権を揮(ふる)わず、西ローマ皇帝を廃止して、自分がイタリア半島の国王になろうとした。オドアケルは47694日に、アウグストゥルスの父であるローマ人の西ローマ軍総司令官フラヴィウス・オレステスを殺害、アウグストゥルスを退位させて、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を東ローマ皇帝ゼノンに返上したのである。では西ローマ帝国の滅亡のありさまを、ギボンの原文、朱牟田の和訳の順に見てみよう。

(ギボン原文)
Royalty was familiar to the Barbarians, and the submissive people of Italy was prepared to obey, without a murmur, the authority which he should condescend to exercise as the vicegerent of the emperor of the West. But Odoacer had resolved to abolish that useless and expensive office; and such is the weight of antique prejudice, that it required some boldness and penetration to discover the extreme facility of the enterprise. The unfortunate Augustulus he made the instrument of his own disgrace: he signified his resignation to the senate; and that assembly, in their last act of obedience to a Roman prince, still affected the spirit of freedom, and the form of the constitution. An epistle was addressed, by their unanimous decree, to the emperor Zeno,

(朱牟田和訳)蛮族民らは帝王の存在にはすっかり慣れっこになっていたから、もしオドアケルが西皇帝の代理者たる権能を揮ってくれたならば、イタリアの屈従的な人民は不平も鳴らさずに唯々としてそれに従ったに違いない。がオドアケルはすでに、この皇帝という無用で金ばかり食う地位を廃止する決意を固めていた。とはいえ、古代からの先入主の重みは大変なものだったから、この変革がこの上なく容易にできることの発見には、相当な大胆さと洞察力とが必要だった。不運なアウグストゥルスが、自分自身の屈辱への道具に使われた。帝は自身の退位の意向を元老院に伝え、元老院はローマ皇帝への最後の忠誠の表明に当って、なおうわべは自由の精神と国制の形式とを装った。全院一致の意志によって書翰が東の皇帝ゼノンに送達された。…

 原文の
prejudiceは「先入観」と訳すべきだ。またit required some boldness and penetration to discover the extreme facility of the enterpriseは、「この変革がこの上なく容易にできると気付くには、相当な大胆さと洞察力が必要だった」と翻訳するべきである。

(ギボン原文)
They solemnly “disclaim the necessity, or even the wish, of continuing any longer the Imperial succession in Italy; since, in their opinion, the majesty of a sole monarch is sufficient to pervade and protect, at the same time, both the East and the West in their own name, and in the name of the people, they consent that the seat of universal emperor hall be transferred from Rome to Constantinople; and they basely renounce the right of choosing their master, the only vestige that yet remained of the authority which had given laws to the world. The republic (they repeat that name without a blush) might safely confide in the civil and military virtues of Odoacer, and they humbly request, that the emperor would invest him with the title of Patrician, and the administration of the diocese of Italy.” 

(朱牟田和訳)彼ら(元老院)は厳粛に述べた。「われらはイタリアに於ける帝位の継承をこれ以上続ける必要を認めず、その意志も放棄する。われらの見解では、一人の帝王の威厳のみで東西両帝国を同時にあまねく防衛するに十分と信ずるからである。われらはわれらの名に於てまた国民の名に於て、この統一された帝国の帝座がローマからコンスタンティノポリスに移さるべきことを承認する。われらは全世界に法を施行した往年の権威の、今に残る唯一の痕跡たる自らの支配者を選ぶ権限も、謹んで返上する。共和国は(と彼らは臆面もなくこの語を何度か繰返して)オドアケルの内政上、軍事上の能力に信頼して可なりと考える。伏して願わくは帝が彼に名誉顕官(パトリキウス)の称号とイタリア管区の行政権とを賦与し給わんことを。」

 ローマの元老院の東ローマ皇帝への書翰なので、朱牟田はおごそかな文体に翻訳している。原文の
both the East and the West in their own nameは「東西両帝国の名に於て」と訳すべきだ。

 退位したアウグストゥスは16歳だったので、オドアケルは彼の命を助け、カンパニア地方に引退させた。イタリア半島はオドアケルの実力によって、ヴァンダル王国など異民族からの攻撃を受けず、平和を享受していた。ところが
488年にゼノンは、東ゴート王テオドリックにオドアケル討伐を命じた。493年にオドアケルはテオドリックに敗れ、殺害されて、イタリア半島はテオドリックが支配する東ゴート王国になったのである。西ローマ皇帝が存在しなくなっても、ローマの元老院は603年まで存続した。西ローマ皇帝の称号はゲルマン人君主のあこがれの的で、フランク王国の国王、神聖ローマ帝国の皇帝は、西ローマ皇帝の伝統を1806年まで受け継いだのである。

 


川村 清夫(かわむら・すがお)

上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。  

 

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