大きくする 標準 小さくする

源氏物語と「夢浮橋」 ― 川村清夫

2020/08/07

第193回  源氏物語と夢浮橋



川村清夫
バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー

  

 
 「夢浮橋」は「宇治十帖」最後の帖である。浮舟は薫と匂宮との三角関係に苦しんで、宇治川に入水しようとしたが、死にきれずにいたところを、横川の僧都に助けられて小野(現在の大原)の山荘に移り、彼の手で出家して尼僧になった。薫は彼女の生存を知ると、横川の僧都に還俗をすすめる手紙を書いてもらい、その手紙を浮舟の異父弟である小君に持たせて、浮舟のもとに向かわせた。ところが浮舟は出家の決意を変えず、小君にも会わず、手紙も受け取らなかった。小君は僧都の妹尼から「また来るように」と慰められて京に帰り薫に報告した。薫は自分に代わって誰かが浮舟を囲っているのではないかと勘ぐるところで、「宇治十帖」は終わるのである。

 それでは「夢浮橋」の幕切れを、大島本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)「ただ、かく、おぼつかなき御ありさまを聞こえさせたまふべきなめり。雲の遥かに隔たらぬほどにもはべるめるを、山風吹くとも、またもかならず立ち寄らせたまひなむかし」
と言へば、すずろにゑ暮らさむもあやしかるべければ、帰りなむとす。人知れずゆかしき御ありさまをも、え見ずなりぬるを、おぼつかなく口惜しくて、心ゆかずながら参りぬ。
いつしかと待ちおはするに、かくたどたどしくて帰り来たれば、すさまじく、「なかなかなり」と、思すことさまざまにて、「人の隠し据ゑたるにやあらむ」と、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、落とし置きたまへりしならひに、とぞ本にはべめる。

(渋谷現代語訳)「ただ、あのように、はっきりしないご様子を申し上げなさるのがよいのでしょう。雲が遥かに遠く隔たった場所でもないようでございますので、山の風が吹いても、またきっとお立ち寄りなさいまし」
と言うので、用もないのに日暮れまでいるのも妙な具合なので、帰ろうとする。心ひそかにお会いしたいご様子なのに、会うこともできずに終わったのを、気がかりで残念で、不満足のまま帰参した。
早く早くとお待ちになっていたが、このようにはっきりしないまま帰って来たので、期待が外れて、「かえって遣らないほうがましだった」と、お思いになることがいろいろで、「誰かが隠し置いているのであろうか」と、ご自分の想像の限りを尽くして、放ってお置きになった経験からも、と本にございますようです。

(ウェイリー英訳)
“If I were you,” she said to the boy, “I should just go home and tell your master of the condition she’s in. I am sure he will understand. After all it’s not as though we lived at the other end of the world. The mountain winds may blow; but one day or another you’ll surely come again.” It was not his fault. Kaoru, he was certain, would not expect him to wait about here indefinitely. There was nothing for it but to go home. He felt injured. They all seemed worried about what Kaoru would think; but no one seemed to realize that for him too it was a terrible blow not to have been able to get so much as a word out of the sister whom he had loved so dearly.
For Kaoru the suspense had been torturing, and the complete failure of the boy’s mission was a heavy disappointment. He did not know what to think. The story that she had become a nun and shut herself of entirely from the world, he was not so simple as to believe. If she was indeed living at Ono, no doubt some lover had secretly installed her there and was looking her up from time to time, just as he himself, all too infrequently, had visited her at Uji.


(サイデンステッカー英訳)
“All I can suggest,” said the nun, coming forward again, “is that you remind him of our vulnerability. The mountain winds may blow, but we are not separated from the city by so fearfully many banks of clouds, and I am sure that you will find occasion to visit again.” 
Nothing more was to be done, clearly, and the boy feared that he was beginning to look ridiculous. Saddened and chagrined at his failure to exchange even a word with his so grievously lamented sister, he started for the city. 
Kaoru waited with much anticipation, which the boy’s report was quick to dispel. He might have done nothing at all. 
It would seem that, as he examined the several possibilities, a suspicion crossed his mind: the memory of how he himself had behaved in earlier days made him ask whether someone might be hiding her from the world. 


  「宇治十帖」の幕切れでも、ウェイリーは冗長で、サイデンステッカーは簡潔な翻訳をしている。薫の勘ぐり「人の隠し据ゑたるにやあらむと、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、落とし置きたまへりしならひに」を、ウェイリーは
If she was indeed living at Ono, no doubt some lover had secretly installed her there and was looking her up from time to time, just as he himself, all too infrequently, had visited her at Uji.と、原文にないことを加えて長ったらしい翻訳をしている。サイデンステッカーはthe memory of how he himself had behaved in earlier days made him ask whether someone might be hiding her from the world.と、スマートな翻訳をしている。末尾にある「とぞ本にはべめる」は、両者とも省略している。

 「宇治十帖」の結末では、薫と浮舟の物語は中途半端なままで終わっている。大弐三位とみられる作者は、わざと薫と浮舟の物語を完結させず、「このあと薫と浮舟はどうなったでしょうか?」と、読者の想像に任せているのである。「宇治十帖」の続編としては、鎌倉時代前期に建礼門院右京大夫が書いたといわれる、「山路の露」が存在する。
 


川村 清夫(かわむら・すがお)

上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。  

 

編集部宛メールフォーム

お名前:必須

Eメールアドレス:必須

Eメールアドレス(確認用):必須
(確認の為、同じものをもう一度入力してください)

記事タイトル:必須


メッセージ:必須

ファイル添付:

記事一覧