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源氏物語と「早蕨」(さわらび) ― 川村清夫

2020/05/07

第187回  源氏物語と「早蕨」(さわらび)



川村清夫
バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー

  


 宇治十帖は、紫式部でなく娘の大弐三位が書いたものだと、室町時代の関白一条兼良は、源氏物語の註釈書「花鳥余情」で主張した。1957年に計量文献学者の安本美典産業能率大学教授は、論文「宇治十帖の作者:文章心理学による作者推定」で、品詞の使用頻度を分析した結果、宇治十帖の作者は紫式部ではなさそうだと推定している。

 宇治十帖は、1952年に劇作家の北条秀司によって、「源氏物語:浮舟」という戯曲にされている。この戯曲は1957年に大映京都で映画化されて、衣笠貞之助監督、八尋不二脚本の下で、長谷川一夫が薫、山本富士子が浮舟、市川雷蔵が匂宮、乙羽信子が中君に扮している。竹村康和による、非常に美しいカラー撮影が印象的である。この映画は、大君の葬儀から浮舟の入水までを描いている。

 匂宮の邸宅に引き取られることになった、中君のもとに薫が訪問して、大君の思い出を話し合いながら、明日に引き払う八の宮の山荘への名残り惜しさを感じるのである。
 それでは、山荘の紅梅の木を前にした薫と中君の会話を、藤原定家による自筆本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(定家本原文)
「つれづれの紛らはしにも、世の憂き慰めにも、心とどめてもてあそびたまひしものを」など、心にあまりたまへば、

「見る人もあらしにまよふ山里に
昔おぼゆる花の香ぞする」

言ふともなくほのかにて、たえだえ聞こえたるを、なつかしげにうち誦じなして、

「袖ふれし梅は変はらぬ匂ひにて
根ごめ移ろふ宿やことなる」

堪へぬ涙をさまよくのごひ隠して、言多くもあらず、
「またもなほ、かやうにてなむ、何ごとも聞こえさせよかるべき」など、聞こえおきて立ちたまひぬ。

(渋谷現代語訳)
「所在ない木の紛らわしにも、世の嫌な慰めにも、心をとめて賞美なさったものを」などと、胸に堪えかねるので、

「花を見る人もいなくなってしまいましょうに、嵐に吹き乱れる山里に
昔を思い出させる花の香が匂って来ます」

言うともなくかすかに、とぎれとぎれに聞こえるのを、やさしそうにちょっと口ずさんで、

「昔賞美された梅は今も変わらぬ匂いですが
根ごと移ってしまう邸は他人の所なのでしょうか」

止まらない涙を体裁よく拭い隠して、言葉多くもなく、
「またやはり、このように、何事もお話し申し上げたいものです」
などと、申し上げお立ちになった。

(ウェイリー英訳)

How many times had she sat with Agemaki at this tree! How often had its beauty driven from both their hearts all thought of their own weariness or misery: “Far hence the soul of her that gazed the winds of fate have carried, but still there lingers as of old the fragrance of the mountain tree.” Such was the poem that she murmured faintly to herself in broken cadences. Kaoru repeated the words tenderly. “Touched by a vanished sleeve, with such familiar scent the tree is charged that scarce can I believe the garden which awaits it is not mine.” 
Such was his poem. He managed hastily to brush away the tears that he felt coming, but could not trust himself to speak further. “You must often let me come and talk with you like this,” he said presently, and after settling some points connected with tomorrow’s journey, left the room. 


(サイデンステッカー英訳)

Her sister, she remembered, had been especially fond of the plum blossom, and had made use of it for this or that little pleasantly, and sought consolation from it in difficult times as well. The memories too much for her, she recited a poem in a tiny voice that wavered at the point of disappearing: 
“Here where no visitor comes save only the tempest, 
The scent of blossoms brings thoughts of days now gone.” 
Kaoru whispered a reply: 
“The fragrance lasts of the plum my sleeves have brushed. 
Uprooted now, must it dwell in a distant land?” 
He brushed his tears away and left after a few words more. “There will be chances, I am sure, for a good, quiet talk.” 
He went out to give orders for the next day. 


 大君の和歌を、ウェイリーは
Far hence the soul of her that gazed the winds of fate have carried, but still there lingers as of old the fragrance of the mountain treeと訳しているが、原文にない大君の魂を持ち出していて、忠実な翻訳とはいえない。サイデンステッカーはHere where no visitor comes save only the tempest, the scent of blossoms brings thoughts of days now goneと、より忠実な翻訳をしている。薫の返歌に関しては、ウェイリーはTouched by a vanished sleeve, with such familiar scent the tree is charged that scarce can I believe the garden which awaits it is not mine、
サイデンステッカーはThe fragrance lasts of the plum my sleeves have brushed. Uprooted now, must in a distant land?と訳しており、渋谷が訳さなかった「「袖ふれし」も訳している。

 中君は匂宮の邸宅に引き取られて、匂宮の子息を産む。大君が忘れられない薫は、中君から、大君にそっくりの異母妹である浮舟の存在を明かされるのである。


 


川村 清夫(かわむら・すがお)

上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。  

 

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