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源氏物語と「椎本」(しいがもと)  ― 川村清夫

2020/04/07

第185回  源氏物語と「椎本」(しいがもと)



川村清夫
バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー

  

 京の都の権力闘争を嫌って宇治に隠棲した八の宮は、余命が長くないことを悟り、薫に大君と中君の後見人となってくれるよう頼んだ。同時に八の宮は大君と中君に、生涯宇治を離れず、俗世間に恥をさらすことがないよう遺言を残し、宇治の山寺で亡くなった。薫は悲しみに沈んでいる大君に、京の自邸(三条院)に迎えたいとプロポーズをするが、あっさり断られてしまうのである。

 それでは八の宮の遺言と、大君が薫のプロポーズを断る場面を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「おぼろけのよすがならで、人の言にうちなびき、この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違ひたる契り異なる身と思しなして、ここに世を尽くしてむと思ひとりたまへ。ひたぶるに思ひなせば、ことにあらず過ぎぬる年月なりけり」

(渋谷現代語訳)
「しっかりと頼りになる人以外には、相手の言葉に従って、この山里を離れなさるな。ただ、このように世間の人と違った運命の身とお思いになって、ここで一生を終わるのだとお悟りなさい。一途にその気になれば、何事もなく過ぎてしまう歳月なのである」

(ウェイリー英訳)

“Above all, on no account let yourselves be persuaded to stray a single step from your present home, unless in exchange for it you are offered some position of the most definite and absolute security. It may be that, if the worst comes to the worst, you will have to end your days here where they began. In that case, be patient, bear with the hours as they come, and you will find that even in idleness and solitude times passes far more quickly than you would ever have supposed. “

(サイデンステッカー英訳)

“Men who are not worthy of you will try to lure you out of these mountains, but you are not to yield to their blandishments. Resign yourselves to the fact that it was not meant to be – that you are different from other people and were meant to be alone – and live out your lives here at Uji. Once you have made up your mind to it, the years will go smoothly by. “

 ウェイリー訳よりサイデンステッカー訳の方が正確である。ただし「おぼろげのよすがならで」の解釈は、渋谷、ウェイリー、サイデンステッカーはそれぞれ違っている。

(大島本原文)
「雪深き山のかけはし君ならで
またふみかよふ跡を見ぬかな」

と書きて、さし出でたまへれば、
「御ものあらがひこそ、なかなか心おかれはべりぬべけれ」とて、

「つららとぢ駒ふみしだく山川を
しるべしがてらまづや渡らむ
さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」

と聞こえたまへば、思はずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず。

(渋谷現代語訳)
「雪の深い山の懸け橋は、あなた以外に
誰も踏み分けて訪れる人はございません」

と書いて、差し出しなさると、
「お言い訳をなさるので、かえって疑いの気持ちが起こります」と言って、

「氷に閉ざされて馬が踏み砕いて歩む山川を
宮の案内がてら、まずはわたしが渡りましょう
そうなったら、わたしが訪ねた効も、あるというものでしょう」

と申し上げなさると、意外な懸想に、嫌な気がして、特にお答えなさらない。

(ウェイリー英訳)

On a piece of paper however she wrote the poem: “Look on the snow-clad hills and you will find no track that leads to other gate save yours,” and handed it out to him from behind her screen. 
“That is a poor excuse,” he said, “Indeed, your treatment of Niou is a sign of unfriendliness to me rather than the reverse. “Over the ice-bound river that splinters under my horse’s hoofs how dare I send others, till I myself have crossed?” That much encouragement I can at least lay claim to, if I am to throw myself with full energy into my task.” 
She had not expected this sort of thing from him, nor was it at all to her taste, and she did not reply. 


(サイデンステッカー英訳)

Presently she pushed a verse from under her curtains: 

“Along the cliffs of these mountains, locked in snow, 
Are the tracks of only one. That one is you.” 

“A sort of sophistry that does not greatly improve things. 

“My pony breaks the ice of the mountain river 
As I lead the way with things from him who follows. 
‘No such shallowness, ‘ is it not apparent?” 


More and more uncomfortable, she did not answer. 

 ウェイリー訳は、大君と匂宮の関係について説明的に加筆しているが、原文の雰囲気に忠実に翻訳している。サイデンステッカー訳は、簡潔だがそっけない翻訳で、原文の雰囲気が伝わってこない。「さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」と「思はずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず」の翻訳で、両者の原文に対する思い入れの格差が顕著に見える。

薫の下手な求愛を拒んだ大君は次の「総角」の帖で、この世を去ってしまうのである。

 


川村 清夫(かわむら・すがお)

上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。  

 

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