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源氏物語と「橋姫」  ― 川村清夫

2020/03/23

第184回  源氏物語と「橋姫」



川村清夫
バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー

  


 「橋姫」の帖は、源氏物語の最終部分「宇治十帖」の最初の帖である。光源氏の異母弟である八の宮は朝廷の権力闘争から離れて、宇治の別荘で大君、中君の2人の娘とひっそりと暮らしていた。薫は世俗的な欲望のない八の宮に惹かれて、彼の屋敷に通うようになった。秋の夜に八の宮邸を訪れた薫は、月の光の下で筝と琴を合奏する大君と中君の姿を見て、大君に一目ぼれをした。薫と大君の間を取り次いだのは弁の君という年配の侍女だったが、彼女は柏木の乳母子で、薫の出生の秘密を知っていた。弁の君が涙ながらに薫が柏木と女三宮の間の不義の子であることを教えると、薫は長年の謎が解けて、感涙にむせぶのだった。

 それでは薫が弁の君から出生の秘密を知る場面を、明融臨模本の原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(明融臨模本原文)姫君の御後見にてさぶらはせたまふ。弁の君とぞいひける。年も六十にすこし足らぬほどなれど、みやびかにゆゑあるけはひして、ものなど聞こゆ。
故権大納言の君の、世とともにものを思ひつつ、病づき、はかなくなりたまひにしありさまを、聞こえ出でて、泣くこと限りなし。
「げに、よその人の上と聞かむだに、あはれなるべき古事どもを、まして、年ごろおぼつかなく、ゆかしう、いかなりけむことの初めにかと、仏にもこのことをさだかに知らせたまへと、念じつる験にや、かく夢のやうにあはれなる昔語りを、おぼえぬついでに聞きつけつらむ」と思すに、涙とどめがたかりけり。

(渋谷現代語訳)姫君のご後見として伺候させなさっている、弁の君と言った人である。年も六十に少し届かない年齢だが、優雅で教養ある感じがして、話など申し上げる。
故大納言の君が、いつもずっと物思いに沈み、病気になって、お亡くなりになった様子を、お話し申し上げて泣く様子はこの上ない。
「なるほど、他人の身の上話として聞くのでさえ、しみじみとした昔話を、それ以上に、長年気がかりで、知りたく、どのようなことの始まりだったのかと、仏にもこのことをはっきりお知らせ下さいと、祈って来た効があってか、このように夢のようなしみじみとした昔話を、思いがけない機会に聞き付けたのだろう」とお思いになると、涙を止めることができなかった。

(ウェイリー英訳)
When he was gone Kaoru sent for the old gentlewoman Ben no Kimi, who immediately resumed the story. She must, he thought, have been almost sixty, but there was nothing in her speech to suggest decrepitude nor any influence of the remote province in which she had lived so long. In telling the tale of Kashiwagi’s desperate love, the illness that ensued upon it and his miserable end, she wept profusely. The story was of a kind that would certainly have moved Kaoru profoundly even if it had in no way specially concerned him. But now as he heard the great uncertainty that had weighed upon him ever since he could remember, being step by step removed, he too could hardly refrain from tears. For years he had never uttered a prayer to Buddha without imploring that these torturing doubts might be resolved, and now suddenly, when he had given up hope, the whole of that pitiful past flowed by him as in a dream. 

(サイデンステッカー英訳)
When the prince had withdrawn for matins, Kaoru summoned the old woman. Her name was Benokimi, and the eighth Prince had her in constant attendance upon his daughters. Though in her late fifties, she was still favored with the graces of a considerably younger woman. Her tears flowing liberally, she told him of what an unhappy life “the young captain,” Kashiwagi, had led, of how he had fallen ill and presently wasted away to nothing. 
It would have been a very affecting tale of long ago even if it had been about a stranger. Haunted and bewildered through the years, longing to know the facts of his birth, Kaoru had prayed that he might one day have a clear explanation. Was it in answer to his prayers that now, without warning, there had come a chance to hear of these old matters, as if in a sad dream? He too was in tears. 


 ウェイリーとサイデンステッカーの翻訳は、一長一短である。弁の君の性格「みやびかにゆゑあるけはひして」に関してサイデンステッカーは
she was still favored with the graces of a considerably younger womanと訳したが、誤訳である。ウェイリーがthere was nothing in her speech to suggest decrepitude nor any influence of the remote province in which she had lived so longと訳した方が正しい。「故権大納言」(柏木)の呼称についてサイデンステッカーはyoung captain Kashiwagiと訳したが、これも誤訳である。captainでは大尉で、陸軍の下級将校になってしまう。大納言は内大臣に次ぐ三位相当の朝廷の高官であり、major counselorと訳すべきである。ウェイリーはKashiwagiと名前をそのまま表記している。出生の秘密を打ち明けられた薫の反応「年ごろおぼつかなく、ゆかしう、いかなりけむことの初めにかと、仏にもこのことをさだかに知らせたまへと、念じつる験にや、かく夢のやうにあはれなる昔語りを、おぼえぬついでに聞きつけつらむ」に関しては、ウェイリーが原文にない文を加えているのに対して、サイデンステッカーはHaunted and bewildered through the years, longing to know the facts of his birth, Kaoru had prayed that he might one day a clear explanation. Was it in answer to his prayers that now without warning, there had come a chance to hear of these old matters, as if in a sad dream?と、原文に忠実な翻訳をしている。

 薫と匂宮と浮舟を主役とする「宇治十帖」は、ここにはじまるのである。

 


川村 清夫(かわむら・すがお)
上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。  

 

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