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源氏物語と「紅梅」  ― 川村清夫

2020/02/22

第182回  源氏物語と「紅梅」



川村清夫
バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー

  

  「紅梅」の帖は、光源氏の親友でライバルだった太政大臣(頭中将)の遺族の後日譚である。光源氏も太政大臣も亡き後、柏木の弟である紅梅は大納言になって、太政大臣の遺族の大黒柱になっていた。髭黒大将の娘だった真木柱は、光源氏の弟だった蛍兵部卿の妻だったが死別して、今では紅梅の妻になっていたのである。

 薫とならぶ主役である匂宮は、光源氏の甥である今上帝と、光源氏の娘である明石中宮の間に生まれた皇子であった。六条院で紫上に育てられて、薫とは幼なじみだった。薫が香しい体臭の持ち主なのに対抗して、匂宮は衣服に薫物を焚きしめていた。薫が恋愛に消極的なのにくらべ、匂宮は自由恋愛を行う、光源氏亡き後の平安宮廷第一のプレイボーイ貴族になっていた。

 紅梅は匂宮に、彼と先妻の娘である中の君との縁談を提案しようとするが、匂宮は真木柱と蛍兵部卿の娘である宮の御方が好きなようだった。さらに匂宮は、光源氏の弟である宇治八の宮の3人娘(宇治の大君、宇治の中君、浮舟)のもとにも通っており、真木柱は匂宮の色好みに苦労させられるのである。

 それでは真木柱が匂宮のことで苦労する「紅梅」の末尾を、大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)「何かは、人の御ありさま、などかは、さても見たてまつらほしう、生い先遠くなどは見えさせたまふに」など、北の方思ほし寄る時々あれど、いといたう色めきたまひて、通ひたまふ忍び所多く、八の宮の姫君にも、御心ざしの浅からで、いとしげうまうでありきたまふ。頼もしげなき御心の、あだあだしさなども、いとどつつましければ、まめやかに思ほし絶えたるを、かたじけなきばかりに、偲びて、母君ぞ、たまさかにさかしらがり聞こえたまふ。

(渋谷現代語訳)「何の遠慮がいるものか、宮のお人柄に何の不足があろう、そのように結婚させてお世話申し上げたい、将来有望にお見えになるのだから」など、北の方はお思いになることも時々あるが、とてもたいそう好色人でいらして、お通いになる所がたくさんあって、八の宮の姫君にも、お気持ちが並々でなく、たいそう足しげくお通いになっている。頼りがいのないお心で、浮気っぽさなども、ますます躊躇されるので、本気になってはお考えになっていないが、恐れ多いばかりに、こっそりと、母君が時折さし出てお返事申し上げなさる。

(ウェイリー英訳)
Sometimes it seemed to the girl’s mother that she must be forced at all cost to accept a match which would not only provide her with an excellent position at the moment but also held out such glowing prospects for the future. But, apart from everything else, the mother heard very disqueting accounts of Niou’s character. It appeared that he was conducting an inordinate number of secret affairs, and had also become deeply involved in an entanglement with one or the other of Prince Hachi no Miya’s daughters and spent a great deal of his time at Uji. In short, she was obliged to conclude that he was thoroughly dissipated and untrustworthy, and finally dismissed from her mind all thought of encouraging him. But occasionally, for the sake of politeness, she would write a brief and formal acknowledgement of the notes that he continued to shower upon her daughter. 

(サイデンステッカー英訳)
Makibashira occasionally sought to coax an answer from her daughter. Niou’s prospects were bright and a girl could certainly do worse. But the prince found it hard to believe that he was serious. He was known to be keeping up numerous clandestine liasons, and his trips to Uji did not seem merely frivolous. 
Makibashira got off a quiet letter from time to time. A prince was, after all, a prince.


 ウェイリーは冗漫だが原文を忠実に翻訳しているのに比べ、サイデンステッカーはぞんざいでそっけない翻訳をしている。最初の真木柱の独白「何かは、人の御ありさま、などかは、さても見たてまつらほしう、生い先遠くなどは見えさせたまふに」に関しては、ウェイリーが
Sometimes it seemed to the girl’s mother that she must be forced at all cost to accept a match which would not only provide her with an excellent position at the moment but also held out such glowing prospects for the future.と、原文に忠実な翻訳をしているのに対して、サイデンステッカーは省略している。匂宮の挙動の描写「いといたう色めきたまひて、通ひたまふ忍び所多く、八の宮の姫君にも、御心ざしの浅からで、いとしげうまうでありきたまふ」でも、ウェイリーはIt appeared that he was conducting an inordinate number of secret affairs, and had also become deeply involved in an entanglement with one or the other of Prince Hachi no Miya’s daughters and spent a great deal of his time at Uji.と、原文の精神をよく汲んだ翻訳をしているのに比べ、サイデンステッカーは匂宮の色好みに関心がないようで、ぶっきらぼうな翻訳をしている。匂宮の性格描写「頼もしげなき御心の、あだあだしさなども、いとどつつましければ、まめやかに思ほし絶えたるを、かたじけなきばかりに」も、ウェイリーはIn short, she was obliged to conclude that he was thoroughly dissipated and untrustworthy, and finally dismissed from her mind all thought of encouraging him.と、思い入れのこもった丁寧な翻訳をしているが、サイデンステッカーの翻訳はいいかげんである。

 薫の引っ込み思案に対し、匂宮の自由恋愛は浮舟の一生を台なしにしてしまうのである。

 


川村 清夫(かわむら・すがお)
上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。  

 

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