大きくする 標準 小さくする

内村鑑三と「余はいかにして キリスト信徒となりしか」 ー 川村清夫

2020/01/07

第179回  内村鑑三と「余はいかにして キリスト信徒となりしか」


川村清夫: バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー


 
 
 内村鑑三は、植村正久と並ぶ近代日本のプロテスタントの代表的な指導者である。彼は
1861年に高崎藩士の家に生まれ、東京英語学校(第一高等学校の前身)、札幌農学校(北海道大学の前身)で学んだ。新渡戸稲造は同級生だった。札幌農学校在学中の1877年に、内村は上級生に強制されて「イエスを信ずる者の誓約」(Covenant of Believers in Jesus)に署名させられ、翌年に受洗してキリスト教徒になった。卒業後の1884年に内村はアメリカへ私費留学をして、アメリカにおけるアジア人差別を体験した。彼は1887年アマースト大学を卒業して、翌年に帰国している。彼は東洋英和学校、第一高等学校などで教師になったが、1891年に第一高等学校の教育勅語奉読式で教育勅語に最敬礼しなかったため、明治天皇に対し不敬であると非難されて辞職した。その後、内村は文筆業をはじめ、1895年に「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」を英文で出版すると同時に、新聞「萬朝報」などで「非戦論」をはじめとする多くの論説を発表して、社会改良を唱えた。1900年に彼は聖書雑誌「聖書の研究」を創刊、1907年に新宿の柏木に今井館を建設して、無教会主義キリスト教運動を開始したのである。内村が1930年に死去した後、今井館は目黒に移築されて現存している。

 内村の
How I became a Christian : Out of My Diary(余はいかにしてキリスト信徒になりしか)は、新渡戸稲造が1900年に出版したBushido : The Soul of Japan(武士道)と共に、日本のキリスト教徒が英語で著した2大名著として知られている。この本のまえがきにI propose to write how I became a Christian and not why. (私が書こうとするのは、私がいかにしてキリスト信徒になったか、であって、なぜなったかではない)とある通り、内村はキリスト教に不本意に入信した経緯も含め、彼の若き日の体験談を率直かつ正直に描いている。

 この本の和訳は、
1935年の鈴木俊郎による文語訳が有名だが、ここでは1984年の松沢弘陽北海道大学教授による口語訳を採用する。

 「イエスを信ずる者の誓約」は、「少年よ大志を抱け」(
Boys, be ambitious)の名言で有名な、アメリカの教育者ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)が作ったものである。内村は先輩たちの圧力に屈して、キリスト信徒への第一歩を歩んだのである。

(内村原文)
The public opinion of the college was too strong against me, which it was beyond my power to withstand. They forced me to sign the covenant given below, somewhat in a manner of extreme temperance men prevailing upon an incorrigible drunkard to sign a temperance pledge. I finally yielded and signed it. I often ask myself whether I ought to have refrained from submitting myself to such a coercion. I was but a mere lad of sixteen then, and the boys who thus forced me “to come in” were all much bigger than I. So, you see, my first step toward Christianity was a forced one, against my will, and I must confess, somewhat against my conscience too.

(松沢和訳)しかし、校内世論の風当りはきつくてとうてい抗しきれなかった。上級生は、次の誓約書に署名するように強要した。それは、まるで筋金入りの禁酒主義者が、度し難い飲んだくれに禁酒誓約に署名するように迫るみたいだった。私はついに屈服して、署名した。私は今でもおりおり、あのような強制に屈すべきではなかったのではないかと、考えてみることがある。しかし、当時、私はわずか
16歳の少年だったのに、「はいる」ように強要したのは、はるかに大きい連中だったのである。このように、キリスト教への第一歩は、自分の意志に反し、うちあけていえば、多少良心にも反する、外から強いられたものだった。

 内村の英文の表現は少し古風であるが、簡単でわかりやすいので、翻訳は難しくない。禁酒主義者の訳語は、
temperance menよりprohibitionistsの方が一般的である。

 内村に洗礼を授けたのは、親日家のアメリカ人メソジスト宣教師メリマン・コルバート・ハリス(
Merriman Colbert Harris)だった。ハリスの励ましで、内村はキリスト信徒になったのである。

(内村原文)
A never-to-be-forgotten day. Mr. H. was a Methodist missionary from America, who came once a year to render us help in religious matters. We remember how we kneeled before him, and how tremblingly though resolutely we responded Amen, as we were asked to own the name of Him who was crucified for our sins.

(松沢和訳)永久に忘れえぬ日。
H氏は米国のメソジストの宣教師で、年に一度我らを訪れて、信仰のことについて助けてくれた。その前に、ひざまずき我らの罪のために十字架にかけられた「彼」の御名を告白するかという問いに、おののきながら「アーメン」(然り)と唱和した時のことが、今なお我らの心に新しい。

 
we kneeled before himは、「彼(ハリス)の前にひざまずき」と訳すべきである。tremblingly though resolutelyも、「おののきながら、しかし決然として」と訳すべきである。

 札幌農学校を卒業した内村は、キリスト教国のアメリカへ留学して、アメリカ社会の現実に反発しながら、良き支援者に会い、キリスト教への信仰を確かなものにするのである。


 


川村 清夫(かわむら・すがお)
上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。
  

 

編集部宛メールフォーム

お名前:必須

Eメールアドレス:必須

Eメールアドレス(確認用):必須
(確認の為、同じものをもう一度入力してください)

記事タイトル:必須


メッセージ:必須

ファイル添付:

記事一覧