大きくする 標準 小さくする

ミシュレと「フランス革命史」ー 川村清夫

2019/07/08

第167回  ミシュレと「フランス革命史」


川村清夫: バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー


 
 フランス革命は、
1789年から1799年まで続いた市民革命である。1789714日の民衆のバスチーユ要塞襲撃にはじまり、84日に国民議会は封建的特権を廃止、26日に「人権宣言」を採択、179193日に憲法を制定、フランスは立憲君主制になった。ところが1792420日にフランスがハプスブルク帝国を相手に革命防衛戦争を開始すると、革命は過激化して921日にブルボン王政を廃止して第一共和政を樹立、国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネットをギロチンで処刑した。179362日には過激派であるジャコバン派が政権を奪取、対立党派を次々とギロチンで処刑した「恐怖政治」が1794727日のクーデターで終了するまで続いた。その後は穏健な統領政府が組織されたが、1799119日にナポレオン・ボナパルトのクーデターで倒され、フランスは1814411日にナポレオンがイギリス、ロシア、プロイセン、ハプスブルク帝国に降伏するまで、ナポレオンの独裁国家になったのである。

 フランスの歴史家ジュール・ミシュレ(
Jules Michelet)は愛国的な人物で、ヨーロッパを席巻した1848年革命に動機付けられて、1847年から1853年にかけて大著「フランス革命史」(Histoire de la Révolution française)を著した。フランス革命の成果である「人権宣言」(人間と市民の権利の宣言、Déclaration des Droits de l’Homme et du Citoyen)は、人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、財産権の不可侵などを明言して、イギリスの「権利章典」、アメリカの「独立宣言」と共に、世界の人権理念の原典として尊重されている。

 京都大学のフランス学の権威だった桑原武夫は
1968年に、多田道太郎、樋口謹一と「フランス革命史」を翻訳した。多田は、ミシュレが「人権宣言」の制定過程だと見た「84日の夜」の章を担当した。それではミシュレの原文、多田の和訳の順に見てみよう。

(ミシュレ原文)
Les deux côtés de l’Assemblée, en conservant leur opposition, n’en apportèrent pas mins un sentiment de religion au solennel examen de la Déclaration des droits.
Il ne s’agissait point d’une Pétition de droits, comme en Angleterre, d’un appel au droit écrit, aux chartes contestées, aux libertés, vraies ou fausses, du Moyen-âge.
Il ne s’agissait pas, comme en Amérique, d’aller chercher, d’État en État, les principes que chacun d’eux reconnaissait, de les résumer, généraliser, et d’en construire, a posteriori, la formule totale qu’accepterait la fédération.


(多田和訳)議会の両翼は、たがいに反対の立場をとりつつも「人権宣言」をおごそかに検討するさいには、やはりともに宗教的感情に動かされずにはいなかった。
イギリスにおけるような権利請願はここでは問題にならない。成文法や、疑義のある憲法や、中世以来の真偽不明の諸自由にうったえたりする、そうした動きはここフランスではみられない。
アメリカにおけるように、各州の認める原則を州から州へともとめて歩き、それを要約し、一般化し、そこから連邦が認めるような全般的法則を帰納的に構築すること、それもここでは問題にならない。

 革命先進国であるイギリスの「権利章典」とアメリカの「独立宣言」への対抗意識があらわな論旨である。ミシュレはイギリスの「大憲章」(
Magna Carta)以来の中世からの貴族、市民の権利を保障した諸法令を否定して、アメリカの連邦制に対するフランスの中央集権制の優越性を唱えているのである。

(ミシュレ原文
)Il s’agissait de donner d’en haut, en vertu d’une autorité souveraine, impériale, pontificale, le credo du nouvel âge. Quelle autorité? La raison, discutée par tout un siècle de philosophes, de profonds penseurs, acceptée de tous les esprits et pénétrant dans les mœurs, arrêtée enfin, formulée par les logiciens de l’assemblée constituante…. Il s’agissait d’imposer comme autorité à la raison ce que la raison avait trouvé au fond du libre examen. 
C’était la philosophie du siècle, son législateur, son MoÏse, qui descendait de la montagne, portant au front les rayons lumineux et les tables dans ses mains
.

(多田和訳)皇帝や法王にみられるような至高の権威をもって、上から新時代の信仰箇条をあたえること、それがフランスでの問題なのであった。なんの権威?「理性」だ。一世紀もにわたって哲学者たち、深遠な思想家たちに議論され、すべての人々にうけいれられ、風習にまでしみこんだ「理性」。それは立憲議会の論理家たちにより、ついに決議され、法式化される…。理性が自由検討の果てに発見したところのものを、権威をもって理性におしつけること、それが問題なのであった。
額に光の輪をおび、両手に十戒の石板をもちながら山をおりてゆく者、それは時代の哲学、時代の立法者、時代のモーゼなのであった…。

 自己陶酔的で客観性に欠ける論旨である。フランス革命では宗教が否定され、理性(
raison)が「最高存在」(Ëtre suprême)として賛美された。

 「人権宣言」の「人」(
homme)とは白人男性のことで、女性や非白人の人権は考慮されなかった。フランスで女性に参政権が認められたのは1944年で、ドイツの1918年、アメリカの1920年、イギリスの1928年に遅れており、日本とイタリアの1945年と同様である。

 


川村 清夫(かわむら・すがお)
上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。
  

 

編集部宛メールフォーム

お名前:必須

Eメールアドレス:必須

Eメールアドレス(確認用):必須
(確認の為、同じものをもう一度入力してください)

記事タイトル:必須


メッセージ:必須

ファイル添付:

記事一覧