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第9回 「鍵を突っ込んだ」話 

2022/04/22

【連載】
なまくらギフテッド随想録
第9回
 
                                 
 「鍵を突っ込んだ」話 


後藤雛樹
バベル翻訳専門職大学院修了生


 

前回の記事を受けて、「あなたの理想とする教育を具体的に示してみてください」との声をいただいた。次回の連載修了までに少しでもお示しできればと思い、色々と調べているところである。これとは別だが今回は、創造性と破壊性が裏腹であろうことを主に述べたい。筆者自身の幼少期の体験にもとづいて、想像をふくらませたものである。

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故スティーブ・ジョブズが幼少期、コンセントにヘアピンを差し込んだという話は比較的よく知られていると思う。実は筆者も同様のことをしている。6~7歳のころ、祖父母の邸宅に親戚一同が集まっているときにコンセントに鍵を突っ込んで停電させたのだ。電気はすぐに復旧したし昼間だったので、それほど驚かれずには済んだ。だがもちろん、危険だから二度としないようにと注意を受けたのである。しかし筆者は代わりに(?)自分の部屋にある子供用夜間ライトの可愛らしいカバーをむりやり外して、たびたび中の回路に指を突っ込んでは僅かながらビリビリとする感電のスリルを密かに楽しむようになった。ジョブズにせよ筆者にせよ、家庭環境が危うい中で育った子どもには、こういう危なっかしい遊びが見られるようである。それだけではない。幼いときのこうした衝動には創造性の萌芽が見られるようで、(筆者はともかく)ジョブズの場合はその典型だろう。ちなみに筆者が心理学を学んでいた折に参加したある臨床心理学の講演会では、高名な臨床家の先生も子供の頃に「火つけ」(放火)の衝動があったと話していらっしゃった。作家の故・田辺聖子も若い頃にわけもなく万引き衝動に駆られたという。河合隼雄『あなたが子どもだったころ』(講談社プラスアルファ文庫)や同『子どもと悪』(岩波書店)にも同様の事例が色々とあって興味深い。だがここでは次に、ジョブズや筆者の上記のいたずらが電気にまつわるものであることに注目したい。

電気が表すもの、電気のメタファーとは何であろうか。ユング派精神分析医の老松克博は著書『スサノオ神話でよむ日本人』(講談社選書メチエ)のなかで「古代ギリシアでは(中略)一般に、神は雷電のかたちでこの世に顕現するものと信じられていた」とか、「神の怒りとしての雷は世界的に広く見られるイメージ」であり「『かみ(・・)なり』という日本語がはっきりそのことを示している」と書いている。また雷の光である稲妻も本来は「稲夫」と表記し、雷が「稲を孕ませる精(スピリット)」としての性質を持つとされていたという。老松はこの他、てんかん発作における脳の電気生理学や神話における雷電の考察などからてんかん気質の偉人について述べているが、ここに筆者の考えを少しばかりつけ加えたい。すなわち人類史で最初の画期的発明たる道具は火だが、その火は落雷による山火事から得られたであろう。つまり文明に革命をもたらす道具である火の出どころとして雷があり、これが人間にとって創造性のメタファーとして無意識レベルで根づき用いられてきたと考えられるのである。そして、インスピレーションが湧くことを日本語で「閃く」と言う。これも稲光の閃光に通じるところがあると言えるだろう。

コンセントに鍵やヘアピンを突っ込むというのを、フロイト的な視点から捉えることもできる。フロイト流に言えばコンセントは女性器、鍵やヘアピンは男性器と考えられる(フロイト流の性的な解釈は今日でも「即物的」などと言われるが、こうした解釈は「フロイトならではの卓越した比喩」と捉えるのが妥当と思われる)。この場合、両者の結合が意味するのは性行為ということになるが、これを「新しい生命を作り出す行為」と捉えるならば、やはり創造性というテーマにつながってくると思われる。

前段落では性行為になぞらえたのであるが、このことから連想される「宗教的法悦」にも触れておきたい。ダン・ブラウンの小説『天使と悪魔』(ハヤカワ文庫)にて、主人公がヴァチカンの芸術作品『聖テレジアの法悦』について「セックス描写そのもの」などと評するくだりがある。この聖テレジア自身が「交わっている」(とイメージしている)相手は神だと考えられるかもしれないが、宗教的法悦の快感が性的快感と通じるものがあるというのもよく言われる話である。単なる身体的な交わりと考えれば下世話なことでも、精神的・象徴的な交わりと考えればそうではない(おそらく本来の性行為は両方の意味を同時に持つのであろう)。日本にも理趣経と呼ばれる性を肯定する経典があるが、神仏との合一は洋の東西を問わず宗教的な忘我の境地なのだと思われる。仏教的表現で言うところの悟りの精神性を生み出すというのは、究極の創造性と言えるだろう。

ここまでコンセントに鍵(ヘアピン)を突っ込んだ話をふくらませて、電気について、性行為について、宗教的法悦についてその象徴的意味を考えてきた。ただこれらはいずれも、危険を伴うことに留意したい。電気はすでに述べた通り火災や感電の危険があるし、性行為も相手の同意がなければ犯罪にも、望まない妊娠の原因にもなりうる。宗教的法悦についても同様で、瞑想や座禅などでも自我意識が適切に保たれない場合は狂気に陥る場合がある。人間が大いなる創造力を得ようとしたり、精神的な高みに登りつめようとしたりするのは命がけのことが多いのだ。創造性と破壊性は少なくともある程度、表裏一体なのである。これは文明がこれまでいかに多くのものを生み出し、多くのものを破壊してきたかを考えれば、案外たやすく了解できるのではないだろうか。アインシュタインはその知性を駆使して相対性理論を編み出したが、そこから導かれた方程式により核の脅威が生まれてしまったことを思い出してほしい。極論かもしれないが、そういった経緯もまた何らかの必然であったような気さえするのである。

創造性と破壊性が一体のものであるならば、私たちはどうすればよいのだろう。思うに、知性をコントロールする何らかの指針ないし知性を補償する何らかの原理が必要なのだ。知性を野放しにしない指針、知性の暴走を和らげる原理とはなんだろう? すぐに明確な答えは出ない。だが学問分野に限って言うならば、いわゆる文系の学問は必須だろうと思われる。というのも文系の学問には「知や技術の使い方」を検討したり、人間存在そのものついて考察したりする分野が多く含まれるからである。大雑把に言うと、「理系のテクノロジーで作り出した道具を、文系の知恵で使いこなす必要がある」と表現できるだろう。これが片手落ちでは、到底うまくいくとは思えない。今日、人類はすでに現代のような文明を作り上げた。人間にとってこれからの問題は、お互い学び合って解決していくしかないと思われる。そのような際に文系にも理系にもまたがる翻訳教育などを広めて、自国語の思考様式を相対化できる土壌を整えておくのは時宜にかなったことだろう。現代は「他者への想像性」を育むということが、なかんずく重要な時代だからである。「想像性」の欠如こそ、あらゆる社会問題の根幹なのではないか? 我が身をふり返っても、そう感じさせられる。 


【プロフィール】
後藤雛樹(ごとう・ひなき)※ペンネームを使用しています。
兵庫県西宮市在住、奈良県生まれ。地元の学習塾で講師を勤める。バベル翻訳専門職大学院修了生。JAPAN  MENSA会員、ギフテッド・リンクス会員。神戸の大学で心理学を、奈良の大学と米国ポートランド州立大学で英語を学び、学士号2つ(社会学、英語コミュニケーション)と米国翻訳修士号、日本心理学会認定心理士、TOEIC900点、英語検定準1級、漢字検定2級、中国語検定準4級などの資格を持つ。趣味は読書(マンガ含む)、英会話、ビデオゲーム蒐集、カラオケ、映画・アニメ・動画や音楽の鑑賞、散歩など。蔵書は約2,000冊、YouTube登録チャンネルは300近くと幅広い。知能検査WAIS-IVによるIQは134(標準偏差15の場合)、もしくは152(同24の場合)。