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『翻訳と私』― 小池堯子

2020/11/07

【連載】VOICES from Alumni Overseas
第5回 
 

『翻訳と私』

 小池 堯子
(翻訳者、2014年バベル翻訳専門職大学院文芸翻訳科修了)

 
 気がつくと2020年も残り少なくなってきました。
 
当初は新手のインフルエンザかと思われていた新型コロナ(Covic-19)が今年の2月初旬ごろから急速に広まり、その感染力の強さと治療薬がないことで世界中がパニック状態に陥りました。ともかくうつらないこと、うつさないことが第一ということで、マスク着用、人込みを避けるための自粛要請、都市部におけるロックダウンなど、物理的な距離感により人や国は分断されました。反面、インターネットの普及により、リモートワークやオンライン会議などが普及し、物理的には離れ離れになりつつ、コミュニケーションはますます盛んになっているという奇妙な、新しい現象が生まれました。こうした新たなコミュニケーションの世界で、私たちは誰に向かい何を発信していくのか、従来の距離感では測れない新たな課題が出てきています。
 
翻訳という仕事に取り組むときに、こうした状況は無視できないものになってきています。誰に何をどう伝えたいか、私がこれまで関わらせていただいた主に文芸やノンフィクションの書籍は、そうした読者対象の考察なしには考えられないからです。

1.なぜ翻訳に興味を持ったのか?
 翻訳業に携わる方々の動機はさまざまでしょうが、恐らく、ひとつの共通項として、言葉への興味があげられると思います。
 私の場合は父親の影響が大きかったように思います。父は翻訳小説を出版する小さな会社に勤めていた、いわゆる文学青年くずれのような人で、暇さえあれば本を読んでいました。そのおかげで、周りには常に活字が溢れていました。誕生日のプレゼントは毎年講談社の少年少女の世界文学全集の中の一冊で、ようやく字が読めるようになった5歳ぐらいから、この文学全集を読んでいました。日本よりも世界の、特に西洋の物語に先に馴染んでいったのが、いま考えてみると翻訳に関心を持った根っこにあったように思います。
 大学を出てからも文字に携わる仕事がしたくて、一貫して出版関係の会社を選びました。編集者として他の方の書かれた原稿を校正していくためには、自分でもきっちりとした文章力を身につけなければならない、そのためにはいい文章をたくさん読むこと。それは日本語・英語を問わず、これまで私が自分に課してきた勉強法です。
 そんな視点で翻訳本を読んでいくと、何だかピンとこない翻訳が結構多いことに気がつきました。文章が分かりにくい、いかにも英語調の表現で日本語としてこなれていない、物語の情感が伝わりにくい、などなど。英語に慣れてきて読み比べてみると、どうも解釈が違うんじゃないか、というような訳本にも出会いました。
 じゃあ一つ自分で訳してみるか、などという不遜な思いではもちろんなく、ただいい翻訳とは何だろう、という疑問はずっと抱えていました。そこが私の翻訳に興味を持った出発点だったと思います。

2.翻訳の勉強を始めるまでの紆余曲折(アメリカ生活あれこれ)
 1980年代の後半、それまで勤めていた京都の出版社を退職し、その後本格的に美学の勉強を始めるためにカナダの東海岸にある大学への留学を計画します。なぜ美学かなぜカナダか、という理由は本論から外れるのでここでは省きますが、ともかくそのためにはまず英語に慣れることという目的のため、最初に英語留学に挑戦しました。短期ではありましたがブリティッシュコロンビア大学への英語留学。森の中の大学や寮生活や各国の人々との出会いなど初めての海外生活は楽しかったのですが、同時に決定的な英語力のスキル不足を痛感し、海外での生活にはかなり不安が残りました。帰りにサンフランシスコの友人宅に滞在してのアメリカ見学中に、今の夫と出会いました。カナダ留学か、日本に戻って編集業を再開するか、アメリカに渡って結婚するか、40歳の境目での私の人生の選択肢は生き方の大転換でもありました。
 「人生いたるところに青山あり」というのが、アメリカを選んだ理由だったように思います。日本に戻って編集業を再開するにしても、カナダで勉強し直して日本に戻るにしても、自分の将来というのは日本という限られた国の中でしか見えなかった。それも40歳を過ぎてのキャリアは、自分の実力や日本での社会生活を経験した後では、ある程度予測がつきました。一方、未知のアメリカでの生活という選択では未来が予測できず、それが逆に踏み込むきっかけになったようにも思います。一度きりの人生、いろいろなことをやってみよう、と。
 海外で生活された方の多くは、多かれ少なかれ経験されていると思いますが、コミュニケーションの不足に加えて、文化の違いは大きいものでした。自分の思い込み、日本という土壌で培ってきたものの考え方、私の場合は言葉を主にしたキャリアなどはほとんど通じない生活でした。英語の勉強などは大学での一般教養以来ほとんどやっておらず、わずかに英会話学校に通っただけでは通じるはずもなく、地元のコミュニティカレッジやアメリカ軍の基地の中にある英語学校に通って、話すこと・聞くこと・書くことの訓練に明け暮れました。それでもようやく通じる英語を話せていると感じるまでには5年以上かかりました。40代の手習いはきつかった!
 
 カリフォルニア時代には海沿いの街で、夫と共に小さいベーカリー兼レストランを経営していました。朝の4時に起きてパンを焼き6時に店を開けると、地元の主におじいちゃんたちがやってきて、朝ご飯と一緒におしゃべりタイム。それから地元のおばあちゃんグループ、働いている人たちがランチを食べに来たり、時には観光客が立ち寄ってくれたりという典型的な「mamas & papas」タイプのレストランでした。恐らくはこういう環境でいろいろな人と接することで、アメリカ人の考え方や行動規範などを学んだように思います。と同時に、英語の聞き取りの訓練にもなりました。さらには、日本時代にはほとんど経験したことのなかったパンづくりや料理が日課となり、そこで一生分のパンも作ったし料理もやった気がします。人生というのはどこかでバランスをとるようにできているのかも知れないと本気で考えました。
 ただ、こういう生活の中でも活字への渇望は大きく、インターネットなど普及していなかった当時は日本語の本が手に入りにくかったこともあり、仕方なく地元の図書館に通い、まずは10代向けの優しい英語の小説から始めて、手当たり次第英語の本を読む生活でした。英訳された松本清張氏の『砂の器』に出会ったときは涙が出るほど嬉しかったものです。

 そんな生活が約8年続き、次のワシントン州時代に入ります。
 2匹の犬と家財道具一式をトレーラーに積み込み、2台の車でカリフォルニアを出発、オレゴン州を抜けてワシントン州に入り、フェリーに乗って移動したのはアメリカでは2番目に大きいと言われる島でした。その島の森の中に土地を購入してトレーラーごと森に住みつき、ツリーハウスを作って、電気と電話を引いて、アメリカ人の友人たちからも 「開拓者みたいだね」と言われた森の生活を始めました。約1年森の生活が続きましたが、水が引けないのがつらく、近くに小さなコテージハウスを購入しました。当初森の中に理想の家を建てようと張り切っていた夫は、やがてさまざまなスピリチュアルやフィジカルなヒーラーの方々と出会うことによって、自分の中で眠っていたサイキック能力を再発見しつつスピリチュアル・ヒーラーの勉強を開始します。後になって知ったのですが、その島は当時リタイアしたフラワーチルドレン的な人が多く住んでいて、さまざまなヒーリングパワーが満ちていました。森の理想の家は遠ざかりましたが、夫は自分のやりたかったことにようやく出会えたようで、それはそれで良かったという気がしています。

 一方私は、あるきっかけで日本語を教える仕事を始めていました。島にあるホームスクールでの日本語クラスをはじめ、高校生の課外クレジットの日本語クラス、そして島にあるランゲージスクールでのクラスなど、子どもや大人たちに日本語を教えることにより、改めて母国語としての日本語と、その時に日常語として使っていた英語に関して考える時間が出来ました。
 名詞で「りんご」「apple」は簡単に置き換えられます。しかし「誰が・どこで・何のために・誰と(何を)・どうする」などという構文を組み立てるとき、日本語と英語はその構造から違います。英語圏の子どもたち(大人たち)に日本語を教えるとき、その構造の違いをまず教えていかなくてはなりません。それは教える私にも改めて跳ね返ってくる課題にもなりました。翻訳というのはこうした構造の違いを踏まえて、考え方の違いや文化の違いを超えて、互いに共通する言葉を互いに伝えていく作業なのだと思います。その思いが、翻訳をきちんと学んでみたいと願うきっかけにもなりました。

4.翻訳の勉強と業務への取り組み
 前置きが長くなってしまいましたが、ここからが「私の翻訳人生」です。この前置きなしには私の中での翻訳の位置がきちっと説明できなかったので、あえて書かせていただきました。「英語大好き」「若い時から英語で仕事をしたい」という気持ちはまったくなかったし、ビジネスとしての翻訳を身につけようという野心もなく、私の翻訳への興味はただただ言葉への興味でした。
 アメリカ時代は地元の人に頼まれて、手紙の翻訳や学校の科学表の英訳、仏教の本の英訳など、少しずつ翻訳の仕事はしていましたが、それは断片的で、翻訳で生計を立てようという思いはあまりありませんでした。そんな翻訳業に対する想いが大きく変わったのは、シアトルの紀伊国屋書店で見かけた一冊の雑誌でした。本のタイトルはよく覚えていないのですが、バベル社が当時出版していた紙の月刊誌で、翻訳業界について、翻訳の資格について、翻訳の世界で活躍する人たちについての紹介が掲載されていました。「へー! こんな世界があるんだ」というのが雑誌を手に取った時の感想でした。雑誌の最後にバベル翻訳大学院の案内がありました。どんなことを勉強するんだろう、という興味で案内書を申込みました。
 知らなかった世界がそこにはありました。英語が出来て日本語ができれば翻訳は大丈夫だろうという安易な考えは吹き飛んだと言ってもいいように思います。「翻訳の勉強がしたい」と真剣に思うようになりました。ネックはオンライン講義であること、そして授業料が高額であることでした。今でこそオンライン講義は当たり前になっていますが、その時の私はコンピュータの操作にもあまり慣れていなかったし、周りにも教えてくれそうな人もいなくて、オンライン講義はまったく未知の領域でした。
 授業料の問題は、ワーキングスカラーシップという制度にパスすることで軽減されました。オンラインの方は、バベル社の担当だった方とのメールのやり取り、時には電話のやり取りで、手取り足取りという感じでじつに懇切丁寧に教えていただきながら、ともかく始めてみたのです。
 翻訳大学院の勉強を開始した最初の年に、かねてから計画していた日本移住を実行しました。2010年のことでした。翻訳大学院は2年で修了が原則ですが、単位の修得に時間が足りない場合延長が認められていたので、私は延長ギリギリの2年を加え4年間計画で修得単位の計算を行い、1年で取る講義を限定していきました。移住に伴う雑事で半年以上まったく勉強ができなかったことに加え、ワーキングスカラーシップ制度で、言ってみれば授業料減額分の価格に見合う実務を行なうためにさまざまな業務に取り組まなくてはならず、実際に講義の勉強をする時間が足りなくなったのです。
 しかし後になって考えると、このワーキングスカラーシップのおかげで、じつにいろいろなことを学ばせていただきました。翻訳という実務に取り組むさいの姿勢、担当者とのやり取り、簡潔なメールの書き方、ファイルのまとめ方と送り方、などなど、オンラインでの仕事のやり方は、ほとんどこのワーキングスカラーシップで学びました。翻訳を仕事としてこなせるようになったのも、ひとえにこの制度と、担当してくださったプロモートマネジャーさんの叱咤激励のおかげだったように思います。
 さて、修了課題で取り組む200ページ程度の翻訳本の選択とそのシノプシスつくりに取り掛かっていたころ、ワーキングスカラーシップの業務として、スピリチュアル系の日本語原著600ページの英訳チェックのお仕事の打診がありました。一応、原英訳はありましたので原著と読み比べての監訳作業ということでお受けしたのですが、これがじつにその後2年以上かかる大仕事になりました。この作業についての説明を始めると長くなりますので省かせていただきますが、原著の日本語がかなり難解だったために日本語の読み解きから始めて、そのたびに新しい英訳を作り直すという監訳と英訳作業、そして何より原著の日本文を読みやすくするための編集作業が加わり、膨大な時間がかかりました。
 この業務を通して得た利点は大きなものがありました。まずは原著の英訳を最初に担当された方とのコミュニケーションを通して、お互いの原著に対する理解が深まり、それに伴っての英訳の変化です。担当者の方が原著者の方と密に連絡を取ってくださり、私もその方のご講演会に参加して著者の方の言いたいことや伝えたい要旨をそれなりに理解し、その上での日本語文の編集と英訳作業のやり直し作業を重ねました。ある意味、かなり贅沢な翻訳作業をさせていただいたという気もしています。
 その後はほとんどがバベル出版部からご依頼で、ノンフィクション系の運動科学や健康に関する本、フィクション系の冒険小説からハードボイルド系の本などの和訳や英訳の監修を手掛けてきました。ごく最近には、といってもシノプシス作成から2年以上かかりましたが、ワークショップ形式での脳のトレーニングに関する和訳本の監訳をさせていただき、これも面白い経験でした。自分でコツコツと翻訳作業をするのもひとつ、ワークショップを通していろいろな方々の翻訳に触れるというのも貴重な体験で、ある意味ワクワクする時間でした。私は指揮者であり、さまざまな楽器の音色を聞き分けながらひとつの曲に仕上げていく、まさにそんな時間を持たせていただきました。

5.そして今・・・
 フィクションやノンフィクションの監訳がほとんどのパートを占めていましたが、その他にもアメリカに移住する前に編集業務をしていた京都の出版社の親会社からの依頼で、ビジネスの受注英訳担当者として契約をさせていただき、随時お仕事をしています。これは英語のやりとりなので、私にとってはいつも「これでいいんだろうか?」という不安が付きまといます。ネイティブではないので、いくら英語に慣れていてもやはり微妙な言い回しになると考え込んでしまうことも多々ありました。幸いなことに、夫がアメリカ人なのでネイティブチェックが簡単にできて、その点はラッキーでした。
 そうした夫への「ありがとうリターン」として続けているのが、夫専属の通訳と翻訳です。日本に来て10年、いろいろな方からジェフさんは(夫の名前です)日本語もまあまあ話せるでしょうと言われるのですが、じつはほとんどしゃべれずに家では今でも英語が中心です。日常の書類の提出、近隣地域との連絡、複雑な買い物などはすべて私担当、家での込み入った話もすべて英語、テレビでも二か国語放送以外はすべて日本語なので「あれは何だ? あそこはどこだ? あの人は何をしている?」といった質問に答えるのに忙しくてゆっくり見られないため、ほとんどテレビも見ず。そのせいか、なぜかアメリカ時代よりも英語力はついたような気もしています。
 もう一つの手伝いは、夫がアメリカ時代から行っているオーラリーディングのアシスタント(通訳と翻訳)です。このオーラリーディングというのは、その人の持っているオーラカラーを見ながら意味や性格を読み取っていく作業なのですが、サイキック能力の訓練のおかげか、ある時から夫には人の持つオーラの色が見えるようになりました。アメリカ時代ほどではありませんが、日本でも興味を持ってくださる人たちがいて、これまでにも数十人の方々のオーラを読ませていただきました。通常は家に来ていただいて、夫が「ヒーリングルーム」と名付けた彼の部屋でリーディングさせていただきます。その際、クライアントの方々のほとんどは英語が出来ないため、私が通訳を務めます。その後リーディングのレポートとポートレートを作成するのですが、これも夫が書いた英語原文を日本語に翻訳してからご依頼のあった方々に送ります。原文を書いた本人が目の前にいるので、これはかなり翻訳しやすい状況です。意味が分からないときには突っ込んで議論ができるために、より分かりやすい日本語になるからです。
 原文を書いた方との意思の疎通がとれにくい時の翻訳には本当に苦労します。これは翻訳の業務をされている方の多くが経験されていると思いますが、ノンフィクションの場合は特に、著者の方の意図が捉まえられないまま翻訳作業をすると、自分なりの解釈になりがちで文章の客観性が失われやすく、読者に伝えるという視点が薄くなることがあります。

 今年に入ってからは、コロナ感染症の影響で、我が家も自粛生活を実行中でほとんど外部との接触がありません。月に数回の地元の方や子どもたちとの英会話クラス以外は、あまり人にも会わない生活が続いています。オーラリーディングも写真を送っていただき、いくつかの質問に答えていただくという遠隔リーディングに切り替えています。

 オーラというのはその人が持っているエネルギーの形です。このエネルギーというのは通常では見えないものですが、人とのコミュニケーションにおいて、エネルギーの波動がなければ相手には何も伝わりません。今は電磁波という機械による波動もありますが、人はもともとこうしたエネルギーの存在を見えるものとして信じてきました。言葉にもエネルギーがあります。「Language spirit」日本語に訳すと「言霊」です。この自粛期間中を私は自分の学びの時間と考えて、現在はこの「言霊」について少し勉強をしています。また「vital force」「生命力」についてもホメオパシーという自然療法を学ぶことで、自然治癒を高めていければと考え、1年間のクラスを受講することにしました。一見翻訳とは直接関係のないこうした勉強ですが、自分の中のエネルギーを高めなければ、コロナ感染症禍のいま、きちんとした形で生きていくのがだんだん難しくなってきている気がします。

 この原稿のご依頼をいただいた時、翻訳業界で生き抜くためのノウハウなどは語れないので、と最初はお断りしたのですが、これまで私が関わってきた翻訳とは、という視点で書きたいことを書いてみればというアドバイスをいただいて再度挑戦してみました。20代、30代の編集業、40歳でそれまでのキャリアを捨てて渡米し、慣れないベーカリー兼レストラン業務や日本語教師を経て、50歳代後半で翻訳大学院に学び、60歳代で日本に再移住して翻訳の仕事をさせていただき、と翻訳業そのものでは結構遅いスタートですが、改めて考えてみると一つ一つはそれぞれに繋がっている気がします。
 「言葉」への想いが根底にあり、それが形を変えて自分の人生にいろいろな方法で現れてきたのだと思っています。ここからがファイネルチャレンジの時間です。英語と日本語という言葉をどう繋げていけるのか、言葉の持つエネルギー「language spirit(言霊)」の存在を感じながら、それをどう生かしていけるか、そのことをいま模索しています。