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リモート社内翻訳者という新しい可能性-宮田百合

2020/08/22

【連載】VOICES from Alumni Overseas
第3回 
 
リモート社内翻訳者という新しい可能性
~コロナのおかげで縮まる「社内翻訳者」と
「在宅フリーランス翻訳者」の違い~



 宮田百合
(翻訳者、バベル翻訳専門職大学院修了)
 
 
はじめに
 はじめまして。宮田百合と申します。私は、2019年にバベル翻訳専門職大学院を卒業しました。大学院では、法律翻訳を専攻しました。大学院入学前は、日系メーカーの社内通訳翻訳の仕事を長年やっていました。卒業した今も、その仕事を続けています。

 私が翻訳の仕事に関わるようになってから、だいぶ長い年月が経っているのですが、翻訳の仕事をやろう、もしくはやりたいと思ったことは実は一度もありません。もう少し正確に言えば、自分が翻訳を仕事にできるとは思ったことが一度もありませんでした。それは、私が普通の日本人だったからです。普通の日本の家庭で育ち、普通の日本の教育を受けて、成人しました。翻訳の仕事ができるのは、帰国子女や特別な英語教育を受けた人のみで、私のような普通の日本人にはできる仕事をではないと思っていました。その私が、どのようにして、翻訳者としてこれまで仕事してきたかをお話ししたいと思います。

翻訳の仕事をするようになったきっかけ
 私が翻訳の仕事に携わるようになったのは、ある翻訳会社でやっていた翻訳家養成講座を受けたことがきっかけでした。この講座を受けた理由は、翻訳家になることを目指していたわけではなく、あくまで自分の英語の勉強のためでした。当時通っていた日本の大学院で、特殊な英語の試験があり、その英語の試験を合格することが卒業の条件でした。英作文が得意でなかった私は、日英翻訳の方法論を学べば、英語で論文が書けるようになるではないかと思ったのです。そしてこの講座の受講修了後、講座を主宰していた翻訳会社から仕事の依頼をいただきました。これが、私の翻訳者への道の一歩となり、その後の私の人生を大きく変えることになったのです。

翻訳会社での仕事
 ただ、この依頼された仕事内容は、私の想像と大きく違っていました。翻訳といえば、多くの人が思い浮かべるのが、フリーランスで、在宅で仕事をするというワーキング・スタイルでしょう。ところが依頼された内容は、在宅ではなく、翻訳会社のオフィス内で仕事をするというものでした。この時この翻訳会社では、大きなプロジェクトが進行していました。それまで手作業だった翻訳を、当時急速に普及していた翻訳支援ツールを使って、大量の翻訳を試みるというものでした。ところが、翻訳会社が抱えていた翻訳者はほぼ全員、出社して仕事をすることを断ったらしく、それで修了生である私に声がかかったようでした。ただ、これは私にとってはラッキーでした。翻訳の仕事は、経験者が優遇されることが多く、初心者にはなかなか仕事が回ってきません。この翻訳会社での経験のおかげで、このあとは、翻訳の仕事にスムーズに就けるようになりました。

 翻訳会社での仕事は、多岐に渡りました。毎日、締め切りに追われて非常に忙しかったですが、ここで翻訳という仕事のすべての基礎を学びました。翻訳そのものだけでなく、翻訳者や品質の管理、クライアントとの関係、翻訳メモリの概念、翻訳支援ツールなど、数えきれないほど多くのことを学びました。その一方で、私はフラストレーションも感じていました。このプロジェクトチームが受ける仕事はすべてビジネス関係の文書ばかりで、特に技術文書の翻訳が主な仕事でした。チームのメンバーは、英語は得意だけれど、技術分野には全く疎いという人ばかりで、テキストの内容を理解するのは至難の業でした。私は文書の中身をきちんと理解したい、文書を書いた人に直接質問をして、本当の技術文書が書けるようになりたいと強く思うようになりました。

社内翻訳者としての仕事
 その後、私が選んだ道は、企業内に常駐する社内翻訳者として翻訳の仕事をするというものでした。翻訳会社での元同僚はすべて、そのまま翻訳会社で翻訳コーディネーターとして仕事するか、フリーランスの翻訳者として独立しています。社内翻訳者になったのは、私一人です。社内翻訳者を選んだ理由は、技術文書を書いた人に直接、文書の内容を聞ける環境で翻訳の仕事をしたかったからです。実際、社内翻訳の仕事を始めてからは、私のフラストレーションは大きく改善されました。文書内容が理解できるようになっただけでなく、現場で使われている業界用語も大量に学び、技術だけでなく、日本のビジネスについての知識が飛躍的に伸びました。これはまさに、現場で仕事をすることから得られるメリットだと思います。

 こうして私が予てより抱いていたフラストレーションが解消されたにも拘わらず、私は別のジレンマを抱えるようになりました。自分の翻訳の品質が、どのくらいなのか確認できなくなってしまったのです。企業内で翻訳することと翻訳会社で翻訳をすることの大きな違いの一つは、品質管理がされるかどうかです。つまり翻訳会社では、翻訳者が訳文を上げると、その後必ずチェッカーによる訳文の校正が入ります。ところが、企業内翻訳には、そのチェッカーが存在しません。自分がした翻訳文が、チェックもなく、そのまま完成版として使われます。自分の翻訳文が、どれだけの品質を保っているのか、次第に不安を感じるようになりました。

 つまりこれは、同じ翻訳の仕事でありながら、社内翻訳と翻訳会社での仕事は、まったく違うものが求められるということを示しています。翻訳コーディネーターをやっている元同僚は、社内翻訳の仕事は、フリーランス翻訳者につながる道ではないとまで言います。確かに、仕事環境、仕事の形態、翻訳者に求められるものは、両者であまりに違います。私が長年に渡って社内翻訳者として仕事してきたにもかかわらず、バベル翻訳大学院に入学して勉強し直さなければならなかった理由が、まさにここにありました。

バベル翻訳大学院での勉強
 大学院では、法律翻訳を専攻しました。大学院に入学した理由は、自分の専門分野を確立したかったからです。技術文書を長年翻訳してきたので、本来ならば、特許等の分野を専攻するべきだったと思うのですが、技術者としてのバックグラウンドがない私が、技術文書の翻訳が私の専門ですと、言い切れる自信がありませんでした。その一方で、私が在職していた会社では、取引の国際化が急速に進んでいました。ビジネスの取引相手がグローバル化し、英文契約書の作成が大量に作成されるようになりました。当然、社内翻訳者である私にもその作成依頼が来たのですが、残念ながら、その仕事は私にはできませんでした。最初は、インターネット等で英文契約書の例文が出ているので、それを使って翻訳を試みたのですが、法律文書は、見よう見まねできるような簡単な文書ではありませんでした。そこで私は、契約書の翻訳方法を学ぼうと、法律翻訳の講座が最も充実しているバベル翻訳大学院に入学しました。

 大学院での勉強は楽しかったですが、フルタイムで仕事をしながら、すべての必要単位を取るのは、時間的に非常に厳しかったです。それでも、最後まで続けられたのは、勉強が楽しかったからです。勉強しているうちに、法律翻訳だけでなく法律そのものにも興味を持つようになりました。法律の知識を高めるために、一般向けの法律セミナーに参加したり、弁護士さんの話を聞きに行ったりしました。在学中は、英語ではなく法律の勉強をすればよかったなと人生選択に後悔してしまったほど、法律の勉強は面白かったです。

社内翻訳か、フリーランス翻訳か
 フリーランスとしても仕事が取れるような実力を身に着けるために入学したバベル翻訳大学院でしたが、卒業した後も、私は社内翻訳者としての仕事を今も続けています。今後、翻訳者としてキャリアを構築する場合、社内翻訳がいいのか、フリーランス翻訳がいいのか、悩ましい所です。正直、私の中では答えが出ていません。両方とも、メリットとデメリットがあるからです。フリーランス翻訳の最大のメリットは、ライフスタイルに合わせて仕事ができることです。ただしその分、雇用は不安定になるという面があります。社内翻訳は、その逆です。最大のメリットは、雇用の安定です。例えば、近年、世界はリーマンショックとコロナウィルスという経済不況を2回経験しましたが、私はそのどちらも影響を受けませんでした。仕事を失うことなく、不況前と同じ生活が続けられています。その代わりに、私も会社員ですので、フリーランス翻訳者のような生活の自由は全くありません。

 ところが、この数か月、非常に興味深いことが起きています。4月に、日本で緊急事態宣言がされた後、私が在籍する会社でも、社員全員が在宅ワークを余儀なくされました。5月末に宣言は解除されましたが、私の会社では、今も在宅ワークを続けています。通訳の仕事すら、自宅から会議システムで入るという状態が続いています。つまり、私は社内翻訳者でありながら、まるでフリーランス翻訳者と同じような生活スタイルで仕事をしているのです。生活スタイルの変化は、私だけではありません。普通の日本の会社員でも、この数か月在宅ワークをやってみて、多くの人が、「仕事って、家でもできるね。会社に無理に行く必要ないね」ということに気づきました。自分のライフスタイルに合わせて、仕事ができることが在宅ワークの最大の魅力だと、まるでフリーランス翻訳者のようなことを言う人が続出しています。もし、このまま、日本で在宅ワークがひとつの勤務形態として定着するならば、翻訳者の仕事も、社内かフリーランスかという垣根は、今よりもずっと小さくなる日が、ひょっとしたら、近い将来やってくるかもしれません。そうなったら、私がこれまで悩んできたような社内翻訳か、フリーランス翻訳かという二者択一の選択肢は、これからはなくなるかもしれませんね。

 

☆お知らせ☆
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バベル翻訳専門職大学院 院生は学生割引となります。
*お申込みの際は必ず、備考欄に修了生または院生とご記載ください。

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