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『総合的な翻訳による英語教育』第30回

2020/10/22

『総合的な翻訳による英語教育』第30回

公用語と地域英語












  

 本WEB誌の【新連載】「翻訳と通訳の距離」の 第1回「翻訳と通訳の間にあるのは《距離》?」(松江万里子:バベル翻訳専門職大学院生)には、下記の記述がある。
 
 EU加盟27カ国のうち、英語を公用語にしているのはアイルランドとマルタだけである。欧州大陸ではフランス語が17~19世紀には外交官用語とされ、所謂「リンガ・フランカ」は、長らく「フランス語」と同義語扱いであったし、現在も欧州委員会関連のドラフト類は、取り敢えずフランス語でリリースされることが多い
。しかしながら、2004年と2007年に、主に旧東欧諸国を取り込む形で実現してきたEUの拡張政策によって、外交官用語としてのフランス語の地位は相対的に低下、代わりに英語が台頭
 旧東欧諸国間のリンガ・フランカはロシア語だったので、ソ連邦崩壊以降の世界情勢に鑑みれば置き換わるのは英語というのが必須の流れ…。旧東欧出身のテクノクラートたちは(恐らく)ほぼ自学自習で英語を習得…、EU政策決定の中枢に食い込む、という「更に上を目指す」人々は、自己投資としてフランス語習得にも金と時間を注ぎ込んだ。
 「欧州大陸では英語を公用語とする国はない」という事実があるゆえに、「誰にとってもほぼ公平に外国語である」ことになり、ニュートラルな道具としての英語がその存在意義を急速に高めていくことになったと拝察する。

 これを踏まえ、本稿では.「公用語」と「地域英語」について説明したい [1] 

             公用語について

 定義上の公用語は、国や地域ないし国際機構において、公的機関などでの使用義務が課される。

EUの公用語

 1958年の欧州経済共同体EEC加盟国(当時6カ国)の公用語(当初、オランダ語、フランス語、ドイツ語、イタリア語の4言語、)が欧州連合EU諸機関の公用語と定められた。EUにおいては、言語憲章により「母語以外に2言語の学習」が定められ、「複言語主義」 (plurilingualism)を言語政策の根幹に据える。「複言語主義」は外国語を「各人の用途と得手不得手に応じて、使えれば良い」とするもので、「読む能力」だけでも立派な英語力になる。「4技能」が全て揃う必要はない。

EUで学ばれる外国語は英語+1

 欧州連合EUで母語以外の2言語として、どの国の国民も選ぶのは、英語が第一で、第二がドイツやフランスといった大国ないしは隣国の言語だ。これは研究や就職やビジネスにおいて重要な言語を学ぶということであり、ドイツでは理工系の学部や大学院の学位論文は英語で書かれる。世界で読んでもらうためだ。
民族・言語的に英国と姻戚関係にあるデンマーク、スウェーデン、ノルウェーの北欧諸国はむろん、スペインやフランス、ドイツ、オーストリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、イタリアなど西/中/南欧諸国だけでなく、東欧のハンガリーやチェコ、学会や旅行でいずれの国を訪れた折も、街で道を尋ねるのも買い物も食事も英語で済ませられた。ベルゲンに向かう電車で色々尋ねた中学生も英語が話せた。ゲルマン語派、ロマンス語派、スラブ語派に分けられる欧州諸語だが、WH移動などの文法操作が共通で学術語も同じだ。特に語派が同じだと方言差を大きくした程度の違いしかないことも多く [2] 、基本語彙も(歴史的に一部音韻に変異が生じたが)同じため、相互に学習も運用も容易なのだ。第一外国語に選ばれる英語は実質的にEU諸国の広域公用語になっている。

国連の公用語

 第二次世界大戦の戦勝国、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア連邦(かつてのソビエト連邦)、中華人民共和国(かつての中華民国)の5カ国が安保理常任理事国になっており、このため中国語、英語、フランス語、ロシア語が国連公用語となっているが、ほかにスペイン語があり、1973年にアラビア語が加えられた。
 国連[3] が公用語を制定するにあたっていくつかの基準を設けたうちの1つに、その言語が持つ「影響力の大きさ、世界的な通用度 [4]」がある。スペイン語は旧植民地の中南米やフィリピンなどの言語であり、英仏語は旧植民地で「三層言語使用 [5]」のアフリカ諸国の上位言語で、英語はインドやシンガポールなど東南アジア諸国やオーストラリア、ニュージーランドなど南太平洋の旧植民地諸国[6] でも使用される。アラビア語は、エジプトを含む中近東諸国の言語である。なお中国語は、全世界にチャイナタウンがあるほか、北米や東南アジアなどに移民(華僑)が多いので「世界的な通用度」があると言えないこともないが、日常的に使うのはほぼ中国人に限られるので、厳密に言うとこの基準には合わない。

国際公用語としての諸英語

 今日、世界の最新の情報や知識をネットで手に入れ、メールで情報交換するには、(80%以上が)英語を使う。アジアにおける国際会議や商取引でも英語が共通語だ。(東南アジア諸国連合ASEANにおける唯一の公用語でもある。)ただし、母語話者より非母語話者が遥かに多く、非母語話者間の英語使用の方が増えている現実を前に、近年「諸英語」(Englishes)という概念が教育現場でも認められつつある。これは語法や発音面で地域語の影響を強く受けたノン・ネイティブの英語も英米語と対等であるという理念で、それは尊重したい。

               地域英語

地域英語の特徴

 地域英語(諸英語)には、①文化や思考様式に根ざした表現面と②発音や文法のような言語面に特徴がある。イスラム圏では仕事の期日までの完成についても“I will try.”と「神の御心に」委ねた責任回避とも解される表現をする。シンガポールでは福建語の影響で“Relax, lah.”と文末にlahを入れる。こうした表現は現地の人だと親近感が沸くが、“You speak Chinese, can or not? ”の質問に “Can.” “No can.”のよう答える(中国語表現「能」「不能」の影響を受けた)文法的な特異性は、公的な場では好ましくないとされる。
 一般に「諸英語」や「外国語としての英語」では、母語にない音は「生理的に発音し易い音で代用する」傾向がある。歯擦音th([Ө][ð])は獲得も難しく他の言語にはほぼない音であることから、摩擦性を失い、破裂音t、dで代用される(tree books)ことが多い。アジアや欧州の諸地域だけでなく、米国の黒人英語などの方言でもそうだ。サッカーのベッカム選手はthirdを「ファードゥ」と発音するが、この「f音化」はロンドンの下町英語「コクニー(Cockney)」の特徴だ。発音の困難な音を発音しやすい近似音で代用するのは普遍的な現象だが、言語獲得途上の幼児にも生じる。日本人の早期英語教育でも「f音化」が起こることは、大阪大学の公開講座[7] において発音のメカニズムを解説した時に、受講した児童英語教室の先生から伺っている[8]
 母語特有の影響もある。ヒンディー語は抑揚が少ないことから、インド英語では全ての音節を平等に(強弱をつけないで)発音する。また通常「破裂音」は内圧を著しく高めた呼気が瞬間的に解放される時の音だが、インド英語では呼気が口腔内破裂的に両唇を押し開く形で解放される。この独特の発音様式によりboxが「ンボックス」になるほか、舌を反らせて硬口蓋を叩いてt、dを発音する。(Wednesdayを「ウェドゥネスデイ」、parkを「パルク」と読むなど)綴り字通りの発音も特徴だ。

地域英語の通訳

 英語の通訳と言っても、英米やカナダ、オーストラリアのネイティブの英語とは限らない。筆者が学部生の頃、ドイツ人の技術者に付いて、日本の技術者を対象に技術指導の通訳をした。「プャー」という発音に一瞬戸惑ったが、状況から「プャー」(圧力)であることはすぐに解った。ドイツ語では「母音に挟まれた子音は有声化する」が、ドイツ語を履修していたのですぐ気付いたのだ。また、インド人の一行と通産省の役人の会議でも通訳したが、ヒンディ語の訛りが強く、何度も聞き直さなければならなかった。大学院生の時に非常勤講師をしていたミッション校ではフランス人の神父が英語の授業で“This is a hotel.”を堂々と「ジスイズ・アンノテル」と発音していた。フランス語では英語のthの音がないので、日本人と同じように「ジス」と発音したのはまだしも、hotel のh音をフランス語式に落としたら英語にならない。h音を落としたことで冠詞aがan に変わりotelに続くので「アンノテル」という発音になってしまう。まさか中学の英語の授業でこの発音を聴くとは思わなかった。
 もちろん英国内には発音などがかなり異なる地域方言が多いだけでなく、ロンドンの下町英語コックニィ(これが流刑地オーストラリアの地域語になった)など社会階級方言もある[9] 。いずれも現地の人同士が話しているのを聴いたのでは理解できないが、こうした人たちも地域外の人と話す時には、強い方言的特徴をある程度改める。欧州諸国ではほとんどの人が日常会話レベルの英語なら話せるが、普通は母語の音韻特徴に影響された発音になっている。

 

[1]  ここでの考察は、拙著『日本人に相応しい英語教育』(松柏社)の第11章「翻訳と通訳はどう違うのか?」ほかを拠り所としているものが多い。 

[2]  ロマンス諸語はローマ帝国のラテン語がそれぞれの地域で変化を遂げた方言の関係にある。

[3]  第2次世界大戦の戦勝国により設立された国際組織。敗戦国の日本は国連創設時には参加が認められず1956年に加盟。

[4]  英語5億3,000万人、フランス語1億2,300万人、スペイン語4億2,000万人、中国語13億7,000万人、ロシア語1億8,000万人、アラビア語2億3,000万人。

[5] 英米の旧植民地諸国では、英語を使えなければ仕事や日常生活において支障をきたす。特にアフリカ諸国においては、現在でも高等教育は英語やフランス語など旧宗主国の言語と教科書で学ばざるを得ない。母語の部族語と準母語の旧宗主国の言語と(スワヒリ語などの)広域通用語を使う三層言語社会なのだ。 

[6] 南太平洋の旧仏領植民地諸国や地域では現地語以外にフランス語が相互に使われる。

[7] 公開講座「教師のための英語リフレッシュ講座」(大阪大学大学院言語文化研究科主催):筆者は10余年企画運営責任者ほか、「英語らしい発音の科学-ダイナミックメカニズムと発音・聴解の秘儀」「日本人に相応しい英語教育-言語習得論の錯誤を正す」などの講義を担当。

[8]  この先生は日頃日本の幼児がthをfに変えて発音することを不思議に感じていたと言う。

[9]アメリカは一般アメリカ英語の話者が70%で、東部や南部の英語もあるが、方言差は少ない。ただし、黒人英語は発音も文法も大きく違い理解できない。普通、黒人同士でないと使わない。

 


成田一(なりた はじめ)
大阪大学大学院言語文化研究科名誉教授。英日対照構造論・機械翻訳・言語教育/習得論専攻。大阪大学功績賞受賞。
著書『パソコン翻訳の世界』(講談社現代新書)、『日本人に相応しい英語教育』(松柏社)、編著『こうすれば使える機械翻訳』(バベルプレス)、『英語リフレッシュ講座』(大阪大学出版会)、共著『名詞』「現代の英文法6」(研究社)、『ことばは生きている』(人文書院)、『日本語の名詞修飾表現』(くろしお出版)、『翻訳辞典2002』(アルク)、『私のおすすめパソコンソフト』(岩波書店)、『英語教育徹底リフレッシュ』(開拓社)、『21世紀英語研究の諸相―言語と文化からの視点―』(開拓者)他。英文テキスト編注解説、論文・新聞(読売、朝日、日経など)・雑誌記事(『SPA!』(責任編著)、『週刊現代』、『英語教育』、『新英語教育』、『Professional English』、『The Professional Translator』、『Cat(cross and talk)』他)多数。英語教育総合学会会長。