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(13) マルクスと「資本論」―川村清夫

2019/04/08

日本翻訳史

(13) マルクスと「資本論」

                        
                川村清夫: バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー


  
 ユダヤ系ドイツ人の思想家カール・マルクス(
Karl Marx)が、資本主義社会の経済的構造を分析しようとして1867年に出版した「資本論」(Das Kapital)は、19世紀後半から20世紀末まで多くのインテリをとりこにするベストセラーになった。旧ソ連をはじめとする共産主義諸国では聖書のように尊重され、日本でも左翼知識人から絶対真理のようにあがめられていた。

 「資本論」は
3部構成で、マルクス自身が著したのは1867年に出版した第1部「資本の生産過程」だけである。彼が1883年に死去してから、親友のフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)がマルクスの遺稿を編集、第2部「資本の流通過程」を1885年に、第3部「資本主義的生産の総過程」を1894年に出版した。

 「資本論」は、
1924年に社会主義者の高畠素之が初めて全訳してから、多くの社会学者によって翻訳されている。最も有名なのは、マルクス主義学者の向坂逸郎が1967年に出版した岩波文庫版だが、翻訳自体は彼の部下である岡崎次郎が行った。向坂は翻訳を自分の名義にして、岡崎の功績を横取りしたのだ。

 それでは「資本論」の第
1巻第1篇「商品と貨幣」の冒頭部分と主要部分を、原文、岡崎訳の順に見てみよう。
 マルクスは、資本主義経済を最小単位である商品から分析する。
(原文)
Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine „ungeheure Warensammlung“, die einzelne Ware als seine Elementarform. Unsere Untersuchung beginnt daher mit der Analyse der Ware.

(岡崎訳)資本主義的生活様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。

 訳語が難しすぎる。
Elementarformの訳語「成素形態」では意味がわからない。Elementarformの意味は「最小単位」である。
 
 マルクスは、商品には人間の欲望を満たす使用価値と、価格として表現される交換価値があると分析する。
(原文)
Die Nützlichkeit eines Dings macht es zum Gebrauchswert. Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörper selbst wie Eisen, Weizen, Diamant usw, ist daher ein Gebrauchswert oder Gut. … Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des _ Tauschwerts.

(岡崎訳)一つの物の有用性は、この物を使用価値にする。しかしながら、この有用性は空中に浮かんでいるものではない。それは、商品体の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄、小麦、ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。…使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に_交換価値の素材的な担い手をなしている。


 Stofflichen Inhaltの訳語「素材的内容」とは「実体」のことである。「交換価値の素材的な担い手をなしている」は、もっとわかりやすく「実質的に交換価値をもたらす」と翻訳できる。

 マルクスは、使用価値を差し引いた商品は、素材に人間の労働が付け加えられた労働生産物であると解釈している。
(原文)
Sieht man nun vom Gebrauchswert der Warenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von Arbeitsprodukten.

(岡崎訳)いまもし商品体の使用価値を無視するとなれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。

 この部分はわかりやすい。

 そこでマルクスは、人間の労働量は労働時間で測られると分析している。
(原文)
Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen „wertbildenden Substanz“, der Arbeit. Die Quantität der Arbeit selbst misst sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.

(岡崎訳)このようにして、一つの使用価値または財貨が価値をもっているのは、ひとえに、その中に抽象的に人間的な労働が対象化されているから、または物質化されているからである。そこで、財貨の価値の大いさはどうして測定されるか?その中に含まれている「価値形態実体」である労働の定量によってである。労働の梁自身は、その継続時間によって測られる。そして労働時間には、また時、日等のような一定の時間部分としてその尺度基準がある。

 直訳調の稚拙な訳文である。
Größeの訳語「大いさ」は不要である。「また時、日等のような一定の時間部分」は、もっと気をきかせて「何時間、何日間といった一定の期間」と翻訳できる。

 商品の分析からマルクスは、資本とは貨幣を媒介した商品の流通によって限りなく増殖する価値だと解釈する。そして資本は、価値を生産する労働力という商品を所有する賃金労働者からの搾取によって増殖するのだと結論づけるのである。

 


川村 清夫(かわむら・すがお)
上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、
2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。