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(11) ミルと「自由論」―川村清夫

2019/03/07

日本翻訳史

(11) ミルと「自由論」

                        
                川村清夫: バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー


  
 
イギリスは
17世紀に立憲君主制を実現して、18世紀に産業革命を開始して、世界で市民社会が最も発展した国民国家になった。イギリス社会では現実主義的な国民性の下で、社会と個人の関係が議論されてきた。

 
18世紀末から19世紀初期にかけて活躍した哲学者ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)は、人間は現世の快楽を求め苦痛を避けるので、快楽をもたらす行為を善だと考える、功利主義(Utilitarianism)を提唱した。
彼は、個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、政治は社会全体の幸福を最大化するべきであるとする、「最大多数の最大幸福」(
the greatest happiness of the greatest number)を提唱したのである。

 この功利主義を発展させたのが、
19世紀中期の哲学者ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)である。
彼は
1859年に「自由について」(On Liberty)を著した。ミルはこの本で、個人にとって自由とは何か、国家が個人に対して行使できる権力の限界について解説している。

 ミルは、自由は個人の発展に必要不可欠だという前提の下で、人間が人間らしくあるために、個人が自分で考え、話すことのできる自由が必要であり、国家は人間の個性、多様性を保障するべきだと唱えたのである。

 「自由について」は日本では、
1872年に中村正直が「自由の理」の題名で初めて文語に翻訳している。この後は塩尻公明と木村健康の共訳、早坂忠、山岡洋一の翻訳があるが、ここでは早坂が1967年に「自由論」の題名で発表した現代語訳を紹介する。

 ミルの主張の中で最も有名なのが、「危害の原理」(
Harm Principle)である。危害の原理とは、人々は自分たちが望む行為が他人に危害を及ぼさない限り、好きなだけできる自由があるべきだという原理である。

 では「危害の原理」をミルの原文、中村の文語訳、早坂の現代語訳の順に見てみよう。

(ミル原文)

The maxims are, first, that the individual is not accountable to society for his actions, is so far as these concern the interests of no person but himself. Advice, instruction, persuasion, and avoidance by other people if thought necessary by them for their own good, are the only measures by which society can justifiably express its dislike or disapprobation of his conduct. 

(中村文語訳)
要語ノ第一ニ曰ク「インヂヴィヂュアル」一箇ノ人民ハソノ行ヒ為ストコロノ事苟(いやしく)モ他人ノ利益ト交渉セザルモノニ於テハ「ソサイティ」仲間会社(即チ政府)ヨリ責問セラルベカラズ。一箇人民ノ行状ニツヒテモシ諸(もろもろ)ノ他人巳(おのれ)等ガ為ニ不便ト思ヒ勧戒教誨シテコレヲ防ガント欲セバ仲間会社(即チ政府)ニテコノ諸人ノ心ヲ以テ尺度トナシコノ一人ノ行状ニ向ヒ嫌悪スベク禁戒スベキ事ヲ言ヒ出スヲ得ベキナリ。

(早坂現代語訳)
その二公理とは、第一に、個人は自己の行為について、それが自分以外の人の利害に関係しないかぎり社会に対して責任をとる必要はない、ということである。忠告、指示、説得、および他の人々がもし自分たちの幸福のために必要と思うならばその行為を回避すること、以上が、このような人の行為に対して社会が嫌悪や非難を表明するために正当に用いてもよい唯一の手段である。

 中村の文語訳では
individualを「一箇ノ人民」、societyを「仲間会社(即チ政府)」、advice, instruction, persuasion and avoidanceを「勧戒教誨」と訳している。明治維新から4年しか経っていない、1872年当時の日本人は、まだ近代社会用語に慣れていなかったのである。

(ミル原文)

Secondly, that for such actions as are prejudicial to the interests of others, the individual is accountable and may be subjected either to social or to legal punishments, if society is of opinion that the one or the other is requisite for its protection. 

(中村文語訳)
要語ノ第二ニ曰ク一箇人民ノ行状モシ他人ノ利益ニ向ツテ損害トナル事アルモノハ仲間会社(即チ政府)ニテ律法ヲ以テコレヲ罰スベシ。苟モ仲間会所ニテコノ一人ノ所行ヲ責問シソノ他ヲ保護スベシト思フトキハ如此(しか)ナシ得ルナリ。

(早坂現代語訳)
第二に、他人の利益に損害を与えるような行為について個人は責任があり、もし社会が、社会的あるいは法的刑罰のいずれかを自己防衛のために必要とすると考えるならば、個人はその刑罰のうちのどちらかを受けてもさしつかえない、ということである。

 中村の文語訳は語順に沿っているが、
if以下はthe individualの前に置き替えて訳さないと、意味が通らない。

 ミルの「自由論」は、明治前期の自由民権運動の起爆剤になった。指導者の
1人となる河野広中は1873年にこの本を読み、「人の自由、人の権利の重んずべきを知り、また広く民意に基いた政治を行わねばならぬ」と覚って、自由民権運動をはじめたのである。

 


川村 清夫(かわむら・すがお)
上智大学文学部卒業後、上智大学大学院にて文学修士号を取得。
さらに米国インディアナ大学大学院にてPh.D(歴史学)を取得 する。
専攻は近代東欧史。
チェコ・ドイツ民族問題、ハプスブルク帝国の連邦化運動、パン・スラヴ主義を研究する。

株式会社バベル勤務、常磐大学国際学部非 常勤講師、湘南工科大学総合文化教育センター非常勤講師を経て、現在バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー。
著書は、「オーストリア・ボヘミア和協:幻のハプスブルク帝国改造構想」(中央公論事業出版、
2005年)、「プラハとモスクワのスラヴ会議」(中央公論 事業出版、2008年)、The Bohemian State-Law and the Bohemian Ausgleich(中央公論事業出版、2010年)、「ターフェとバデーニの言語令:ハプスブルク帝国とチェコ・ドイツ民族問題」(中央公論事業出版、 2012年)。