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第4回 Clear Thinking のための Plain Japanese

2016/05/25

第4回 Clear Thinking のための Plain Japanese

猪塚 元

 最後となる今回は Plain Japaneseを用いることが、いわゆるClear Thinkingに通じること、そして言語技術というのが適切な学習によって習得できるものであるということ考察していきます。
 
 これまでの3回を読んできていただいている場合には誤解はないと思いますが、ここでThinkingということばについて確認しておきます。というのもThinkingというと、ある事柄に対してどのような「考え方」をするかという面を強く感じる場合があるからです。
 
 今回話題にするClear Thinkingは、Plain Japaneseを生み出す背景となるものであり、いわば「考え型」です。つまりあることに関してどのような考えを持つかは自由ですが、その考えを例えば日本語で表現する際に、Plain Japanese を生み出すことができるような「考えの型」がClear Thinkingです。
Plain Japaneseを用いることで、結果として、理解しやすく誤解を生むことがない明確な文章を作ることができます。そしてこのような Plain Japaneseを生み出す背景となるのが、考えの型としてのClear thinkingです。ですからplain Japaneseの習得を通じて、それを生み出す雛型となるClear thinkingも習得していくということになります。
 
 ことばを通じて、「考え型」が習得できるのは、「考え」は基本的には言葉によって示されるからです。もちろんできあがった、文章における具体的な「考え方」は人によって様々です。しかしその考えを提示するやり方としての「考え型」と、その「考え型」を表すことばには基本的には対応関係が見られます。
もちろんこれを抽象的にとらえれば「論理」ということになるでしょう。たしかにこの「考え型」を支えているのは論理ですが、「考え型」と言った場合にはそれがもっと実際の言語表現に結び付いたものを想定しています。
 
 教育に結びついたその試みの例としては、野矢茂樹『論理トレーニング』(産業図書)などの一連の著作があります。そこでは文と文の関係を「主張と解説」の関係なら「要約、敷衍、言い換え」などに分類し、その際に用いる語彙(すなわち)などの関連づけ関係を明確にさすることが試みられています。
 
 ここで重要なのは。言語表現からその「考え型」がたどっていけることです。もちろん科学にみられるように、ある物質の分析をする際に、適切な手順をふめば、いつ誰がどこでやっても、同じ結果が得られるという理想です。すなわちある言語表現から、適切な手続きを踏めば、考えの道筋を、誰がやっても同じ同じ型に還元できるようなものを考えておくことになります。
 
 実際にはこれをplain Japaneseを用いていく中でこの「型」を習得していくようになりたいわけです。これは例えば味覚などの習得を考えていくとわかりやすいかもしれません。皆さんも経験があると思いますが、例えばコーヒーを例にとってみましょう。ただ飲むだけでも違いがあることはわかるかもしれません。しかしその味や香りについて、どのように違うかをそれを自分の中で定着させたり、他の人と考えを交換するためには、特定の味覚や香りに対する様々な語彙を覚えていくことが必要です。その語彙や表現の仕方を習得することを通じて、初めて微妙な感覚、それらの語彙と味覚や香の間の差異や関連性などにに気付くことができるようになっていきます。
 
 文章に関する感覚的な印象と言葉との関係もこれに近い者があります。何もしなけらば読み書きの経験はいつまでたってもばらばらな印象にとどまっているだけで、互いに関連付けられず、使える体系としては来上がってきません。そのばらばらだった自分の感覚と文章の構造の関係それ、例えばPlain Japaneseのような適切なことばによって結び付けられていくことによって、背景として存在する「考え型」としての論理関係を見いだせるようなものとして出来あがっていきます。
 
 ただしこのように「書き方」を技術としてとらえていくというのにも、抵抗がある場合も多く、さらに現状ではまだできることは、少ないように思え、従来のような「日本語の書き方」の方が良く思えるかもしれません。たしかに言葉で正確に説明しつくことはできないかもしれませんが、それは決してそれが学習や理論の対象にならないということではありません。先ほど述べた味覚、さらに音楽や美術にもそれは共通することです。ここで重要なのは、語れないのは原理的にそれが不可能なのでなくて、単に自分の言葉のレベルが稚拙であるのではないかということです。音楽や美術と同様に訓練や努力によってそれができるようになる方法論があるのではないかということです。
 
 日本語の読み上手、書き上手、そして訳し上手になるということを、単なる才能や感性の問題のように学習が不可能なことがらや、「文学的」といったいわば反論しようがない魔法の呪文で解決するようなものにしてはなりません。出来るようになった人には暗黙の学習法があり、間違いやすいポイントがあり、コツがあり、上達への様々なステップがあったはずです。
 
 この4回で取りあげてきたPlain Japaneseのような言語に対する考え方が目指しているのは、「日本語力」といった「どこでもドア」が使えるようになりなさい、そうすればどこでもすぐ行けます(何でも書けます)。と言うような悪しき「精神論」ではありません。Plain Japaneseを用いた指導では、現状ではまだ至らないところはあるにせよ、暗黙の学習法を「こうすれば、ここまでこれはできます。」というように「何が出来て何が出来ないかを初期条件をもとに明確に示し、方法論としていくわけです。
 
 最後になりますが、コンテキストの共有度が高い従来の日本の状況下での、全くコミュニケーションなしで物事が進行している状態が完璧なコミュニケーションであると考える傾向に通じる様々な学習方やものの見方には、生田久美子が「わざ言語」(『「わざ」から知る』(東京大学出版会))と呼んでいるようなものを含めた貴重な蓄積もあります。ただしそれだけでは、言語による徹底的なコミュニケーションが前提の場面では残念ながら用を足すことができません。母語である「日本語」に対しても、極論すればあたかも非母語話者が「日本語」習得するような客観的に「対象」として考えてその暗黙知を明示化していったものの1つとしてPlain Japaneseが役立つはずです。



猪塚 元
 中高は物理部で実験三昧でしたが、ことばに興味があり、中高で独・仏語を第二外国語、西語をNHKラジオ講座で自習し、大学は上智大学外国語学部ロシア語学科に入学しました。卒業後は上智大学大学院言語学研究科で、ロシア語の研究と並行し音声学の研究室に所属し10年ほど日本各地で方言のフィールドワークに従事しました。

 大学院終了(文学修士)後、大学の非常勤講師をしながら、辞書出版社の準社員として露和・和露、英和・英英などの辞書の編纂の仕事に携わり、並行して情報処理振興事業協会のコンピュータ用日本語辞書のプロジェクトに参加していました。

日本語教育能力検定試験に合格し、日本語教師として大学で留学生には日本語を講義し、現在では日本大学などで、ロシア語、音声学、意味論、文学等を講義するかたわら、日本語教師の養成に関する講義も行っています。

 趣味は読書とそれ伴う古書収集、音楽鑑賞とそれに伴う楽譜(特に自筆譜のファクシミリ版)の収集、オーディオなどです。最近念願のクラヴィコードを手に入れて弾き始めています。家には猫(コーニッシュレックス)が11匹います。