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【特集】翻訳家から見る英語と日本語 第2回 - 江國 真美

2015/11/25

『翻訳家から見る英語と日本語』 
第2回
江國 真美 : 翻訳家
 

  前回、ハイコンテキストの日本語、ローコンテキストの英語を比較しつつ、日本語が省略の言語であることを説明しました。そしてコンテキスト度の違いが「主語」の省略に顕著にあらわれることを述べ、その例として、夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭部分を紹介しました。
 
 吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している
 
 このように日本語では、基本的に、一般人や直前の文と同じ主語、あるいは容易に想像できる主語は省略される傾向があります。
 
主語なし能動
 主語を必要とする英語には不可能ですが、主語を表現しない日本語には可能な表現方法があります。それが「主語なし能動」です。
英語では能動文では主語が必須ですから、主語を省略したいときは受動態にするか、命令形にするしかありません。
 
 英語でも日本語でも、主語を明示したくないときがあります。たとえばキャンセル料の発生を知らせるとき、「当社が請求します」と能動態で表現すると威圧的な印象を与えかねないので、なんとか主語を隠そうとします。
 
 面白いことに、英語でも日本語でもこうしたとき、受動態か自動詞が用いられます。
つまり、本来なら能動態で
We will charge a cancellation fee. 
「当社はキャンセル料を請求します」
というところを
A cancellation fee will be charged.
「キャンセル料が請求されます」
と受動態にしたり、
あるいは
A cancellation fee will occur. 
「キャンセル料が発生します」
と自動詞にして勝手に料金を発生させるのです。
 
 ここで補足しておきますが、高校で習う受動文は大抵、byつきでしたが、実際の英語では、byのない(つまり動作主を表さない)受動文が8割に達します。文章の流れを重視しての受動態、主語を隠すための受動態が大半をしめるからです。
 
 そして日本語にはもう一つ方法があります。それが「主語なし能動」文です。
主語なし能動文とは、文字通り、主語が省略された能動文です。たとえば先の例ならば、
 
「キャンセル料を請求します/キャンセル料を申し受けます」
 
という形で表現できます。
 
「前日までにご連絡をいただけに場合、キャンセル料を申し受けます」といった文章は、日常生活でよく目にします。日本語としても極めて自然ですね。
 
 実は、この「主語なし能動」の手法は翻訳に非常に有効です。たとえばレシピの翻訳。
英語では、煩雑な主語の繰り返しを避けて簡潔に表現するために、一般に命令形で書かれます。
First soak the kiriboshi daikon in water to rehydrate. Leave it for over 30 minutes in water enough to cover the kiriboshi daikon and the volume will increase 4 to 5 times. Take the kiriboshi daikon out of the bowl with your hands and squeeze out excess water.
 
 これを命令形で訳すととても奇妙です。「最初に切り干し大根を水に浸して戻せ。切り干し大根が十分に浸るぐらいに水に入れ30分以上放置せよ。すると量が4~5倍に増える。切り干し大根をボウルからあなたの手で取りだし、余分な水を絞れ」
そこで主語なし能動を用いると、
 
「最初に切り干し大根を水に浸して戻す。十分に浸るぐらいの水に30分以上いれ、4~5倍の量まで戻す。手で切り干し大根をボールから取り出し、余分な水を絞る」
 
となります。これは見慣れたレシピの文章ですね。
 
 また英語の科学技術文では、受動態を多用する独特の表現スタイルが用いられます。
たとえば
The reaction mixture was added to a solution of sodium bicarbonate and extracted with ethyl acetate.
 
というような文章です。これも主語(実験者、操作者)の繰り返しを避けるための受動態で、日本語の受け身の意味はありません。ですからそのまま翻訳すると「反応混合物が炭酸水素ナトリウムに添加され、酢酸エチルで抽出された」というように非常に違和感のある表現になってしまいます。こうしたとき、人による能動的動作であることが明らかなときは、主語なし能動文で翻訳すればいいのです。
 
「反応混合物を炭酸水素ナトリウム溶液に添加し、酢酸エチルで抽出した」
 
 翻訳における、主語なし能動の実践例をみてみましょう。「マニュアル」の翻訳では、主語のyouは基本的に省略されます。逐一翻訳すると煩雑になるからです。以下はApple Watchのマニュアルです。オリジナル版と翻訳版を見比べ、翻訳版では一度も「you」が訳されていないこと、訳す必要があるときは敢えて別の表現に言い換えられていることを確認してください。
 
Here are the gestures you need to use Apple Watch and its apps. The Apple Watch display not only responds to touch-based gestures like tapping and swiping, it also uses Force Touch technology to respond to the pressure of your finger.
 
A setup assistant guides you through a few simple steps to pair Apple Watch with your iPhone and make it your own.
 
https://manuals.info.apple.com/MANUALS/1000/MA1708/en_US/apple_watch_user_guide.pdf
 
「Apple Watch とそのAppを使うために必要なジェスチャーは以下の通りです。Apple Watch の画面は、タップやスワイプなどの指で触れるジェスチャーに反応するだけでなく、感圧タッチテクノロジーによって、指の圧力にも反応する設計になっています」
 
「設定アシスタントに従って、いくつかの簡単な手順を実行すれば、Apple Watchをお使いのiPhone とペアリングして、自分専用に設定できます」
 
(
https://manuals.info.apple.com/MANUALS/1000/MA1708/ja_JP/apple_watch_user_guide_j.pdf
 
 
 
翻訳上の落とし穴
 このように翻訳の実践で実に便利な「主語なし能動」ですが、気をつけなければいけない落とし穴があります。
そもそも、主語のない能動文が可能なのは、暗示的言語文化に慣れた日本人の読者が、省略された主語を脳内で補っているからです。
 言い換えるなら、英文の構造に引きずられて、「読者が補っている主語」を置き去りにしてしまうと、読者をミスリードしたり、違和感を感じさせる訳文になってしまいます。
いくつか例をみてみましょう。
Counting the number of craters on the moon per unit area can be used to estimate the age of the surface.
 
「単位面積あたりの月面上のクレーター数の集計が利用され、地表年齢を予測することができる」
 
よく見受けられる不自然な翻訳例ですが、どこに問題があるのかわかりますか?
「地表年齢を予測する」の主語は読者が脳内で補っている「観察者」。ところが前半の「利用され」の主語は「クレーター数の集計」。つまり「主語のねじれ」が生じているのです。
 
ここは主語を「観察者」で統一するべきです。
 
そうすると、
「単位面積あたりの月面上のクレーター数の集計を利用し、地表年齢を予想することができる」
となり、流れの良い、自然な翻訳になります。
 
では次はどうでしょう。
All speakers listed were invited.
 
以下の4通りの訳でどれが可能ですか?
1)リストに記載された全てのスピーカーは招待された。 
2)リストに記載された全てのスピーカーを招待した。  
3)リストに記載したすべてのスピーカーを招待した。   
4)リストに記載したすべてのスピーカーが招待された。   
 
1)「招待された」の主語は「リストに記載された全てのスピーカー」で可
2)「招待した」の主語は、文中にはない「主催者」で可
3)「記載した」、「招待した」の主語は、ともに文中にはない「主催者」で可。
4)「リストに記載した」の主語が「主催者」、「招待された」の主語が「スピーカー」でねじれが生じているので不可。読者に、スピーカー自身が自分の名前をリストに記載したのか、と誤解される恐れもあります。
 
 
 以上、2回にわたって、日本語と英語の違いをコンテキスト度を中心にみてきました。日本語が省略の言語であること、そこから発展してきた「主語なし能動」とその実践についても言及しました。
 もちろん、分野によっては誤解の回避を最優先し、日本語の自然さを犠牲にする場合もあります。でもどの分野でも基本は同じ。翻訳とは、訳文を読んだ日本人の読者が、英語を読んだネイティブと同じ「概念、意味、事象、ニュアンス、雰囲気」を脳内に「正確に再現する」、「自然な日本語」に転換する作業です。
 「日本語と英語の相違」を頭の片隅においておくと、自然な日本語表現の本質というものも見えてくるはず。みなさんの翻訳の質もおのずと向上していくはずです。


 
江國 真美(エクニ マミ)
大阪大学文学部大学院卒業。
バベル通信科を経てバベル通信講座、スクーリング講師

その後、フリーランスとして独立。
出版翻訳、Forbes誌翻訳、CNN登録翻訳者などを経て、
現在は経済雑誌翻訳、ジャーナリズム翻訳を中心に活動をする一方で、
翻訳学校講師として「自然な翻訳表現」を追求。

翻訳書、共訳書に『いのちの始まり大研究』(青山出版社)、『魔法の糸』(実務教育出版)、『不沈 タイタニック』(実業之日本社)、『世界の危険・紛争地帯体験ガイド』(講談社)、『ホワイトハウスの赤裸々な人たち』(講談社)など。